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2019.08.01

ビットバレー、ジェフ・ベゾスの「口癖」、そして|アマゾン ジャパンができるまで第3回

独占連載:アマゾン ジャパンができるまで


今では、マーケットプレイスの機能は、あまりにあたり前になっている。しかし当時、このサービスがリリースされた直後は、まるで戦争のように社内が二分され、騒然とした状況になったという。これは、「オークション」と「zShops」(ともに、アマゾンが仕入れ、倉庫に在庫を持って販売する以外の商品を売るストア)を、アマゾンの強みであるカタログを使って生き返らせるための、起死回生の一打だった。

「『アマゾンが責任をもって発送するものと、アマゾンクオリティでないものとを一緒くたにする』ことをどうしても受け入れない社員との間で、あたかも労働闘争のような騒ぎになりました。この件に関するミーティングに僕も出席して、この混乱の中でベゾスがどういう決断を出すんだろう? と固唾を飲んで見守りました」

そうするとベゾスは、議論の最後のほうでホワイトボードにそれぞれのサービスの売上、変動費、粗利益、そして、それぞれのサービスの限界利益(固定費を回収する前の利益)を並べて書き始めたという。そして、「カスタマーが求めている商品を、その供給方法に関わらずわれわれは提供する必要がある。中古のほうが安かったり、新品が在庫を切らしているケースもある。同等の利益をもたらすのだから同等の機会を与えるべきだ」、と毅然と言い放ったのだ。

「そして、言い終えた後は、いつものあの有名な高笑い。実に鮮やかなロジックだったし、何よりも『自分が決して揺るがないこと』を示すベゾスのマネジメントスタイルが、強烈な印象でしたね。また、この『自分が決して揺るがないこと』示すベゾスのマネジメントスタイルは、僕が日本でマーケットプレイスを立上げる際にも同様に示されたんです」


2001年、シアトル地震の際、当時の本社ビル「PacMed」の屋上から社員たちに指示をするジェフ・ベゾス

日本の中古本に対する出版社からの反発は米国のそれよりもさらに強かったため、西野は小学館、集英社、講談社など大手出版社の書籍の販売ができなくなる可能性を報告していた。

しかし、日本でのマーケットプレイス導入に関する国際電話での戦略会議で、長いディスカッションの後、ベゾスは「だったら、最悪、アマゾン ジャパンは新刊本は売らず、中古本だけ売るサイトになってもかまわない!」とスピーカーホン越しに言ってきたというのだ。

「これにはまいりましたね。僕だったらそんなこときっと言えない。でも、そう宣言されて、僕自身も迷いがふっきれて、日本でのマーケットプレイス導入に取り組むことができるようになりました」

「これからはお前のこと『西野さん』としか呼ばないからな」

西野がシアトル本社で体験を積み、ベゾスから直接のインプットも受ける一方、東京側ではシアトルからの人材採用のGOを受け、ジャパン・プロジェクトのコアメンバーを探し始めていた。そこで西野が最初に声をかけたのが、高校時代の同級生でバンド仲間だったある男だった。彼は、西野になんでも屋のエキスパートとして頼みにされ、「1年だけでいいから」と口説かれて入社し、立ち上げの混沌をともに乗り越えいく。

1999年頃、日本のアマゾン上陸準備はきわめて極秘裏に行われていた。当然、社名を出しての募集広告も出せない。公募できない中、秘密を守ってくれて、絶対的に信用できる存在に声をかけたのである。


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文・構成=石井節子

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