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2019.07.28

白紙撤回された内定書 |アマゾン ジャパンができるまで 第2回

独占連載:アマゾン ジャパンができるまで


すると、シアトルのランディ・ティンズレーから「もう一度来い」というレターが、2人の元にFaxで届いたのである。


ティンズレーのレター。「日本を立ち上げるに当たってまずはアマゾンのDNAを自分たちに組み入れてくれ」という意味のことが書かれている。

大手書店がオンライン書店を始めるといった噂もあり、2人には「日本はもう早くしないと間に合わなくなる」という危機感が募った。

思わず、「ゴー・オア・ダイ」(突っ走るか、さもなくば死か)などという、脅迫めいた連絡もしながら待機。ようやくベゾスのアポが取れ、1999年1月8日に再びシアトルへ。

岡村はミーティングに臨んで、7ページのプレゼン資料を用意していた。オンライン書店の状況、競合会社の状況、リクルートとソフトバンクがアマゾン日本上陸に興味を示していること、今、日本でアマゾンをやるならどういうやり方が最適解か──。

そのプレゼン資料は3部コピーして持参したが、ベゾスは、それを見て「すぐコピーを取れ!」とスタッフに指示した。それが順番に6人のシニア・バイス・プレジデントをはじめCTOの手に渡り、結局は10人くらいが資料を手に2人の話を聞くことになる。

そして、会議が終わったあと、「待っていろ」と言われるがまま待機していた2人の手には、改めて正式なオファーレターが手渡された。

ちなみに、撤回された最初のオファーレターは「ジャパン・ファウンダー」だったのに、この時の肩書きは「インターナショナル・ディレクター」。ベゾスがシニアVPたちを押し切ったとはいえ、日本進出が正式に決まったわけではなく、「ジャパン・プロジェクト」が立ち上がったわけでもない。


1999年1月8日の会議アジェンダ。「午前11時、3階、ジェフ・べゾス」という文字が見える

互いの意思があってこその「契約」

2人にはオファーレターと同時に、「マネジメント・アットウィル」というペラ1枚の雇用契約書が渡された。

「どちら側からも、なんの理由もなく契約の打ち切りをすることができる。解雇も、退職も」という、アメリカのスタンダードな雇用契約書だった。双方の意思があってこそ、すなわち「相思相愛」を前提にした関係である、という取り決めだ。

だが、順風満帆とはいかない。なぜなら、オファーは出たものの、就労ビザ「H1B」(Non-Immigrant Visa)を取るのに3カ月くらいかかったのである。ようやくシアトル市内のアパートで暮らし始めた後も、雇用形態について、日本法人で雇うのかアマゾン本社採用にするのかで人事がもめて、宙ぶらりん状態だ。ドルで払うのか円で払うのかもなかなか決まらず、給料の不払いが続いた。

無給でのシアトル生活は、1999年の1月から6月くらいまで続いただろうか。日本で人に会ったり、備品を買う経費も、おそらく300〜400万円ほど立て替えたかもしれない。


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構成・文=石井節子

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