学生はあくまで学生であり、その可能性をすべて測りきることができないというポジティブな意味を含む「未完成な存在」だ。AIは与えられたデータ内においては最適な結論を導きだせることができるかもしれないが、学生たちの可能性はその範疇におさまるものでは決してない。既存の社会に上手く適応するための解は導き出せたとしても、世の中を驚かせるような新しい感覚と知見を持った学生を育てるとなると、AI面接システムの導入は逆効果にもなりうる。
そもそも、韓国社会の教育に対する考え方として、中学・高校生くらいの頃からは「できること」を伸ばすべきという感覚がとても強い。良い意味でも悪い意味でも“エリート教育”なのだ。例えば、スポーツの才能がある子は専門特化した学校に通うことが多く、芸能人になりたい子は芸能事務所で専門教育を受ける。一方で、才能がない子に「才能がない」ときっちり言ってあげるのも教育者の役割だという根強い世論がある。
そのような感覚の延長線上で京福大学校がAI面接システムを取り入れると考えると合点がいく。ただ、学生の可能性を推し量る領域で機械化・自動化が進めば、教育機関や教職者など人間しか持ちえない“責任”すら失われてしまう危ういシナリオもありえるのではないか。
教育はAIとどのように付き合っていくべきか。AI化の波が押し寄せるなか、日本の教育現場も、いずれ対岸の火事と見過ごしてばかりはいられなくなるかもしれない。
連載:AI通信「こんなとこにも人工知能」
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