渡米前、岡村、西野、西川の3人は、岡村がニックから「何者だ?」と聞かれたのをきっかけに、「信濃川プロジェクト」を名乗ることにした。アマゾンが世界最大の河川ならば、ジャパンプロジェクトは日本で一番長い川で行こうと、その名前をつけたのである。
シアトルに到着し、ダウンタウンの、「1516 Second Ave. コロンビアビル」と呼ばれる古い社屋に赴く。オンボロの内装、受付には女性が2人いて、電話に「ハロー。アマゾン、ドット、コーム!」と応対している。
この写真の左側に見えるのが、「1516 Second Ave.コロンビアビル」。
案内してくれたのは、ランディー・ティンズレーという国際買収担当、すなわち、国外の企業とのM&Aの責任者だった。この人物の肩書きは「トレジャラー」で、各国の「買取」担当だ。
渡されたスケジュールを見ると、そこにあったのは、ジェフ・ベゾスと5人のシニア・バイス・プレジデントとの、3人個別、1人30分ずつの会議予定だ。ただちに、「俺たちはワンチームだ、別々はおかしい、みんな一緒で、会うのはジェフだけでいい!」と交渉。
日本を発つ前には準備の時間はあまり取れなかった。だからプレゼン前日に到着後、岡村が作成していた資料を土台に、深夜まで3人で満を持して完成版を練り上げ、プレゼンのリハーサルに取り組んだ。この「コロンビアビル」の裏手にある「キンコーズ」で本番のための資料を印刷できたのは、プレゼンの時間の直前だった。
そして当日。プレゼンの部屋には、ジェフ・ベゾス以下シニア・バイスプレジデント5人がそろっていた。
「後の予定はリスケしたから、好きなだけ時間を使え」
しかし、10分くらいプレゼンをしたところで、ベゾスがついと席を立って出て行ってしまうではないか。
慌てていると、帰ってきたベゾスの口から出たのは、「後の予定はリスケしたから、好きなだけ時間を使え」の言葉だった。そこでプレゼンは結局、2時間、たっぷりとできたのだ。
当時のプレゼン資料。「Shinano-gawa project team(信濃川プロジェクトチーム)」の文字。西野に取ってかけがえのないバリューをもつJeff Bezosのサインも
ベゾスは、日本進出に際しては「送料無料戦略」で打って出よう、といった彼らの提案を、上機嫌、終始エキサイトした様子で、時にあの有名な高笑いをはさみつつ、深くうなずきながら聞いていた。
驚いたのは彼らがすでに、日本の事情に相当詳しかったことだった。日本固有の出版流通制度である「再販制度」や「委託販売制度」に関しても、完璧に把握していたのだ。日本はアメリカの半分、世界で2番目に大きな書籍市場という認識で、グローバル戦略においても、ベゾスの中ではプライオリティが高かったに違いない。また、識字率の高さや、活字好きの国民性も魅力的だったのだろう。
アマゾン・ドット・コム本社での、ジェフ・ベゾスへの最初のプレゼン後の写真。岡村と西野にとって、この日がまさに、アマゾン ジャパンローンチに向けての「Day 1」だった(写真1番左が西川潔氏。彼は結局このオファーを受けず、後に「信濃川プロジェクト」から離脱することになる)。
日本自体にも好奇心はあったようだ。西野は「最初にベゾスに会った時、愛読書としてカズオ・イシグロの「『日の名残り(原題:The Remains of the Day)』を挙げ、日本に文化的にも興味があると言っていました」と振り返る。実際、ベゾスはトヨタの「Kaizen」の手法を高く評価していて、自社でもこれを取り入れるために、トヨタの元社員である「Kaizenエキスパート」をアマゾンに採用したりしている。
ちなみに西野はこの時、部屋を出る前、ベゾスに「じゃあ、これからどうします?」と尋ねたところ、「ライク・イエスタデイ(もう始まっているじゃないか!)」と言ったとも記憶している。