今わからなくてもいつかわかる。師から教わるお茶と人生の妙味

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二人の生徒は「なぜ?」を頭に残したまま、先生の動きを見つめる。

今はよくわからない。わからないけど、ここには何かありそうな気がする。やっていればそれが自分にもわかるかもしれない。そんなかたちの学びが、芽生え始めている。

要所要所をピシッと締めつつも、多弁は弄せず、笑顔でまあるくフォローを入れる武田先生は、演じる樹木希林その人と重なる。この人にかかったらもうコントロールされておくしかない、くらいの柔らかな貫禄には、「師」の理想像が託されていると言えるだろう。

「手が知っている」

夏休みに入り美智子が海外旅行に出かけたため、毎週土曜のお茶の稽古は典子一人となる。一人だと何となく気がすすまない彼女だが、思い切って行ったその日、無心になれたせいか、自然と手が動くようになっている。

「手が知っている」という武田先生の言葉で、知らず知らずのうちに何かが身に付いたことを彼女は知る。

冬になって炉に釜が移されると、また新たな所作を覚えることになり、戸惑う典子。「わかる」と「わからない」の間を行ったり来たりしながら月日は流れていく。

正月の初釜や大寒茶会では、皆と同じく着物で参加する典子たち。回ってきた茶碗を両手に包んでかえすがえす眺める典子の表情には、以前の「なぜ?」を自然に越えて楽しむ余裕が見える。

しかしこうした中で、典子と美智子の道は徐々に離れ始める。不器用で機転が利かないという自覚のある自分とは正反対の、割り切り型で結論の早い美智子の選択に、典子は少し焦りを感じつつも、道を模索し続ける。

典子は、生き方について悩みながら歳を重ねる現代の女性の代表なのだ。その日々の中に、小さな句読点のように存在しているお茶。それは時に彼女の精神生活に深い滋味を与え、時に彼女の弱点をそのまま映し出すものとなる。

三十歳になり、教室では後輩もでき、着物姿も板につき、正客の座に座るようになった典子と、老いた武田先生が、色目や柄の大きさは違うが同じ麻の葉文様の着物を着ている場面がある。それは武田先生と典子が、この先何か重要なものを共有するだろうという徴だ。

月日は流れ、典子は私生活で大きな喪失を味わい、深い悔恨にとらわれる。それをゆっくりと時間をかけて昇華していく中で、武田先生も同様に抱え乗り越えてきただろう感情を典子は味わう。

女の人生に起こる様々な節目や出来事を描きながらも、この映画は場面の転換を、「小暑」「立冬」「大寒」「節分」「雨水」など日本の時候を表す言葉で区切っている。季節の巡りが、典子の身に起こる小さな事件、転機、出会いや別れをやんわりと包んでいくかのようだ。

そうした中で、以前はすぐにわからなかったことの意味が、だんだんと紐が解けるがごとく、わかるようになっていく。お茶も人生も同じなのだ。典子もいつか、武田先生のような爽やかな達観に至るのだろう。

連載:シネマの女は最後に微笑む
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文=大野 左紀子

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