私は、留学の意思はあっても大っぴらに「絶対に行く!」とは言えない性格です。ですので、限られた友人だけに英国に行くことを伝えたところ、瞬く間に学校中に知れ渡ってしまい後に引けなくなってしまいました。
数名の友人のみに渡英の意思を伝えたところ、学校中に知られることに(右側が筆者)
最大の関門は母と祖父でしたが、二人とも私の留学の意思をそんなに気に留めていませんでした。なぜなら、当時は外為法があり、海外出張や留学の際は外務省に行って英語の試験を受け、合格しなければならなかったのです。私の英語の成績はあまり良くなかったので、母も祖父も「どうせ忠良は試験に受からないだろう」と安心していたのだと思います。ところが、私は試験に受かってしまった。
慌て出したのは母です。私の留学に猛反対し、「英国なんて知らないところに行ってどうするの!」「どんな悪い人がいるかわからない!」と、あらゆる理由を述べて私を思い留まらせようとしました。祖父は戦前に英国で働いていたこともあり反対まではしませんでしたが、「留学なんて必要ないんじゃないか」と、どちらかと言うと否定派でした。しかし、ここまで準備を進めてしまった以上私の意思は変わりません。母は、私が幼少の頃から海外に感化される生活を送ってきたことを一番良く知っているので、もう止めることはできないと諦めた様子でした。
そして、母と祖父が金策に走り、渡航費と1年分の学費と滞在費を工面してくれました。当時の英国行きの飛行機代は約20万円。戦後間もない高度成長期に入った当時の会社員の平均月収が8千円程度だった時代、航空券がどれだけ高価だったか理解いただけると思います。手配できたのはもちろん「片道」の航空券。今度私が母と祖父にいつ会えるのかは、お互いにわかりません。
そして渡英の日、母は私が日本に帰って来ることはないと覚悟した様子で、絞り出すような声で「日本に還元したいものを見つけて、それを実現するまで帰って来てはいけない」と言って送り出してくれました。
空港では、10人ほどの西高の級友たちが旗を振りながら私を見送ってくれました。
飛行機が離陸後、祖父と母が苦労して工面してくれたお金を抱え、英国で学んで日本に還元したいことは何なのかを考えながら、私は英国に向かったのです。
連載:グローバルリーダーの育成法
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