使命感と覚悟が、イノベーションを起こす
哲也さんがライチの生産を始めたのは、2009年に父親が手がけていたライチを食べたことがきっかけでした。
父親とは別々の農園を営んでいた哲也さんは、トマトやシンビジウム(花き)を生産していました。あるとき父親のライチを一粒食べて、哲也さんは衝撃を受けます。見た目の赤い色、果肉の厚み、そして食べた瞬間に口いっぱいに広がる香り…。それはどれも、海外産の冷凍品とは全くくらべものになりませんでした。「こんなすごい果物、自分でも作ってみたい!」と考えた森さんは、ライチの生産をスタート。以来、10年以上にわたって生産と研究を続けています。
しかし、今に至るまでの道のりは順調とは言い難いものでした。哲也さんの父親はまず10品種ほどのライチを栽培し、土や環境に適した品種としてタイ原産のチャカパットに絞り込むのに5年を費やしています。そこから哲也さんは、マンゴーの栽培技術を応用して、ハウスを使って生産性と品質をあげる栽培方法を模索。10年以上かけて少しずつ築き上げてきました。
ライチを町の特産品として育てたいと思っていた哲也さんは、市場出荷だけでは産地間競争に陥ると考え、父親とは異なる独自の栽培方法を模索しました。収穫は年に一回しかありませんので、新しいアイデアを試せるのも年に一回だけ。マニュアルもない中で経験を積み上げ、技術を確立するには、かなりの時間と労力、そしてコストを要しています。その過程では、実がまったくつかなかった年もあったそうです。
こうした努力を重ねてようやくできた大粒ライチでしたが、しっかりとしたブランディングやマーケティングまで行うのは哲也さんだけでは困難です。単価は思うように上がらず、他の生産者のものと同じ扱いで市場に出るだけでした。希少価値と市場価値を結び付けられないまま、栽培の継続は危機に陥っていました。
収穫の最盛期を1カ月後に控えた2017年4月、こゆ財団の代表理事に就任したばかりの私は、特産品の開発を視野に新富町中の農家さんを訪問しました。哲也さんに初めてお会いした際、私は哲也さんからライチの希少価値、期待値を遥かに超える美味しさ、そしてここに至るまでのストーリーがとても強力であることを哲也さんに教わりました。哲也さんがつくるライチの可能性に共感した私は「このライチを1粒1000円で販売し、ブランド化しましょう」と提案しました。
最初は哲也さんも「買う人がいるのか?」と戸惑ったそうですが、後日「あのとき、価値をわかってくれる人が遂に現れたと思いました」と振り返ってくださっています。長く市場出荷に依存しないモデルを追求していた哲也さんの、正直な思いだと思います。