インタビュー直前の写真撮影。肘をついたり、脚を組むポーズをカメラマンが要求すると、りそなホールディングス取締役兼代表執行役社長の東和浩は戸惑いつつ姿勢を直し、心配そうに呟いた。
姿勢を気にする生真面目さは、いかにも銀行員。しかし、いざインタビューを始めると、堅実な銀行員のイメージとはまた違う人物像が見えてきた。
東が埼玉銀行に入行したのは1982年。銀行が海外に積極的に支店を開いていた時期で、「国際的な仕事がしたい」と銀行業に飛び込んだ。
チャンスはすぐにやってくる。入行3年目に、海外研修制度でメキシコへ。研修を終えて帰国すると、今度は投資銀行業務を学ぶためにロンドンに飛び、証券会社に出向した。
帰国後は証券部門で活躍。その後、埼玉銀行は再編を経てりそなグループになる。しかしバブル崩壊のダメージから立ち直れず、経営は悪化の一途。泥船から逃げ出すように転職する同僚は多かったが、「経営が難しくなった銀行から来たと思われるのは悔しい」と、残る道を選んだ。
それでも流れは変わらなかった。2003年、いよいよ公的資金の注入が決まり、りそなは実質国有化される。いわゆる“りそなショック”だ。
「このときはもう覚悟ができていました。公的資金が入った直後に財務部門の担当になりましたが、その日から『どうやって返すか』ということしか考えていなかった」
返済のスキームには、証券部門で培った知識を活かせた。証券部門は銀行内で保守本流でなかったが、「どんなキャリアも必ず役に立つときが来るとわかった」という。
経営再建の指揮を執ったのは、JR東日本副社長だった細谷英二会長(当時)。細谷は「りそなの常識は世間の非常識」といって、大胆な改革策を次々に打ち出した。銀行ではあたりまえの「頭取」という呼称をやめて「社長」に変更したのも、このころだ。
大胆過ぎて衝突したこともある。細谷は窓口の待ち時間ゼロを宣言。東は「できないことを約束するのはお客様への裏切りだ」と反対した。