ロシアで日本オペラ『夕鶴』に拍手喝采。芸術は文化の違いを超える


さて、小原さんの演じられた与ひょうという役は、ともすると、単なるおバカさんで、どこか抜けているという役どころだ。金にすぐ目がくらみ、見るなと言われたつうの機織り姿を見て、つうを失ってしまう。演技もとても優れている小原さんに、どのようにこの役を考えているのか訊いてみた。

小原さんは、与ひょうを、いわゆる「ギフテッド」な、動物とも意思疎通ができる存在としてとらえ、観客が彼に感情移入ができるように演じているという。確かに、表面はダメ男であるけれど、最後に観客が彼の姿を悲しいと思ってくれるのは、心の底ではピュアである与ひょうから、つうがどうしようもなく離れざるを得なくなっていく、その過程にある。

だからこそ、与ひょうを単なるダメ男にしてはいけない。与ひょうという人の弱さに、観ている人が共感できるように役づくりをしないといけないと、小原さんは考えていたという。そうしなければ、全体の話に感動がなくなってしまうと。納得である。

オペラ歌手と役者の演技の違い

そもそも、オペラ歌手の演技と、普通の役者の演技では何が異なるのかと小原さんに訊くと、最大の違いは「間」であろう、ということだった。

役者は、台本を読み合わせたり、行間を読んだりして役の呼吸をつくっていくが、オペラでは呼吸はすでに書かれてあり、具体的な息遣いが決められている。だから、役者とは逆で、その息遣いがリアリティを持つためにはどうするか、楽譜から逆算してキャラクターづくりをしなくてはならないのだという。

確かに、すべては楽譜に書いてあるところから始まるのが、オペラ歌手だ。芝居の台本よりも遥かに多い情報量を全て受け止め、咀嚼し、表現したうえで、リアリティを追求する。そう、たとえ突然自分の感情だけを1人で何分も歌うアリア(ソロの曲のこと)のようなシーンであっても、それを、リアルだとお客さんに感じてもらえるかどうかに、オペラ歌手の力量はかかっている。

小原さんにいろいろ聞いているうちに、文化の違いの話になった。ヨーロッパの人は、小さい頃からオペラに親しんでおり、ちょっと有名なオペラの登場人物の名前をあげただけで、話が通じる。

オペラは西欧で生まれた文化だと折に触れて思わされることは多いが、オペラはまた、常に時代の最先端の事象を切り取って、社会的課題を表現し続ける側面も持っている。いまだに新作が始終つくられているだけに、新しい価値観や文化を受け入れるにも、最もよい形態でもあるのだ。

今回のマリインスキー歌劇場での『夕鶴』公演の成功の最大の成果は、オペラという形式を用いて、日本人がつくった作品に、海外の人も感動してくれることを、公演にかかわったすべての人が心から理解したことではないだろうか。

私たちはともすると、オペラに関しては、舶来品はいいが国産ものはダメだと思い込み、自分たちで自分たちの限界をつくってしまってはいないだろうか? もっと客観的に、日本におけるオペラがどう世界に貢献できるのか考えたら、たくさんの可能性があるのではないだろうか、私と小原さんの話しはそんな結論に至ったのだった。

文=武井涼子

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