幸せは「なる」ものではなく「感じる」もの

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次にもうひとつの鍵である「幸せを感じる感度」だが、特に都会で暮らしていると、この感度を上げることが意外と難しい。上げるどころか維持するのも簡単ではない。我々はあまりに多くのモノと情報に囲まれているので、自然と感度が下がってしまうのだ。

先週、所用がありニュージーランドから東京に一時帰国した際に、とある企業の社長と投資家の方とお酒を飲む機会があった。

東京の夜景が見えるお洒落な場所は、普段私が暮らしている湖畔とは全く違って刺激的で、その光景を見るだけで私は幸せを感じていたが、そこにさらに、これまでに私が飲んだことのないような高級なワインが出てきた。1本20万円のワインだ。既に一次会で何杯かのビールやワインを飲んでいた私にとっては、正直ここに来てそのような高級なワインを飲みたいとは思わなかったが、実際に飲んでみるととても美味しかった。当たり前だ。普段の私のワインの100倍以上の値段である。

ただ、それは本当に美味しいワインだったのだが、同時に私はあることを思ってしまった。私は1500円のワインで幸せを感じられる自分でいたいと。皆のグラスに飲み残されたワインを見て、心からそう思った。



こう聞くと、「お金持ちに対する僻みではないか」「庶民の自分を慰めているだけではないか」と思われるかもしれないが、そうではない。毎日20万円のワインを飲む生活ができたら、私は間違いなく幸せを感じることができる。夢のような生活である。しかし同時に、私は二度と1500円のワインに満足できなくなるだろう。私が幸せを感じていた「1500円のワインを3日に1本、子供たちが寝静まった後に一人でゆっくり飲む瞬間」はもう二度と戻ってこない。

自分の子供時代を思い出して欲しい。毎日がわくわくした日々だったことを。そして誕生日とクリスマスがどんなに待ち遠しかったことか。

人間は大人になるにつれ「幸せを感じる感度」を鈍らせてしてしまっているのではないだろうか。実は私が子育てで一番気をつけていることはこのことだ。子どもたちにはいつも幸せな気持ちでいて欲しい。だからテレビゲームを与えるのはできるだけ遅らせたいのだ。飲み終えたカフェラテのプラカップでどんな工作をしようかと興奮できる子どもたちの「幸せを感じる感度」を奪いたくないのだ。

誤解しないでもらいたいのだが、収入を増やすことや生活水準を上げることを否定しているわけではない。「幸せはお金では買えない」と言っているわけでもない。それどころか、幸せを感じるにはある程度のお金が必要だし、そのためにある一時期には「幸せを感じる瞬間」を犠牲にしてでも頑張ることも必要だと思っている。

私はただ、既に普通に生活するのに困らない経済状況にありながら、それでもなお上へ上へと果てしなく登り、その先に幸せがあると信じて苦しんでいる人に伝えたいだけなのだ。既に目の前に自分にとっての「幸せを感じる瞬間」があるのなら、それを得られる生活や働き方を考え、自分の「幸せを感じる感度」を守ることで、幸福感は上げることができるということを。
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文=角川素久

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