大浦は日本の小学校を卒業した後、米軍基地内の中学校に進学。米国の大学を卒業し、米国と日本をベースに製薬企業でキャリアを積んだ。がん治療の歴史を変えたと言われるがん免疫薬「オプジーボ」の製品化の初期段階で、米製薬企業のグローバルプロジェクトマネジャーとして携わった日本人だ。
そんな彼女がキャリアで大事にしているのが「日本人としてのアイデンティティ」だという。日米の国境を飛び越えて活躍する彼女のキャリアの原点、そして、わくわくする瞬間を聞いた。
──大浦さんのキャリアの背景について教えてください。
父親は北海道生まれの日本人で、母親がエクアドル人です。私は小学校6年生まで日本の学校に通った後、神奈川県座間市の米軍基地内の中学校に進学しました。両親は私に、日本人としての土台を築いた後、世界で活躍するために必要な英語や、違う国の文化や教育、考え方を学んで欲しいと思っていたようです。
学校はアメリカの教育システムで、日本語を話す人はいませんでした。私は日本語しかできなかったので、入って最初の1年は普通の授業は受けさせてもらえず、ESL(English as Second Language)というコースで、とにかく英語の勉強をしました。文化の面でも衝撃を受けましたが、高校になってようやく慣れました。
──そこから米国のデンバー大学に進学し、化学と数学、経営学を学んだ後、日系製薬企業に就職されました。
当時のKyowa Pharmaceutical Inc.に入社したのは偶然でした。米国で就職したいと思いつつ、日本に貢献したいという思いもあって就職活動が進んでいなかった時、たまたま友人とニューヨークに遊びに行きました。
日曜日に友人が出かけた後、ホテルの電話帳が目に入りました。日本企業で、ニューヨークにあって、かつ化学とビジネスが使えるところと言えば日系の製薬会社です。電話帳で知っている名前に全部丸をつけて、電話し始めました。日曜ですが、日系企業ならいるだろうと思って。
電話に出たのが2社。その日のうちに2社を尋ねて、自己PRをして手書きで名前とメールアドレスを紙に書いて渡しました。デンバーに戻って一週間ほど経った後に、メールが来て「一回お話したい」と言われたのが、その後にお世話になる上司です。私は思いついたら徹底的に走るタイプですね。
──当時はどのような仕事を担当していましたか。
社員は社長、副社長、私という順番で入社し、あらゆる仕事をやらせてもらいましたが、これは天職だと思ったのがプロジェクト・マネジメントでした。
製薬企業内の開発部門のプロジェクトマネジャーは、一つの薬剤の開発において、臨床試験から薬事申請を出して承認を得るというプロセスを一つにつなぎ、進捗管理、予算管理、人員管理をして統括する役です。究極の横串で、人と人をつなげてゴールに向かう仕事だと思います。好きすぎて、プロジェクトマネージメントの博士課程も終了させてしまいました。