私が1960年代に渡英を決めた理由|グローバルリーダーの育成法

都立西高校時代の級友と。当時から海外への関心が高まっていった(右から2番目が筆者)

私は1962年、19歳の時、英語もろくにできないまま単身でイギリスに渡り、パブリックスクールで中等教育を受けた後、ケンブリッジ大学に進学しました。

こう書くと、私がチャレンジ精神にあふれ、勇気ある人物に見えるかもしれません。しかし実際はそんなことはありません。どちらかというと流れに任せ、あらゆる人を頼って生きてきた、と言ったほうが正解でしょう。

とはいえ、10代のうちに世界に飛び出したからこそ今の自分があるのも事実です。私が日本の若者に5年間のイギリス留学を支援(一人当たりの総支援額およそ4000万円。返済不要の奨学金として国内最高額)する目的で財団を設立したのは、これからの日本を支える彼らにグローバルリーダーになってもらいたいという想いによるものです。

私には子供がいません。そのような私が若者の教育や育成について語ることをおこがましいと思う人がいるかもしれません。この連載では教育論を語るのではなく、日本が素晴らしい国であるからこそ、日本人としてのアイデンティティを持ち、これから世界で活躍し日本や世界を牽引するような人物になる若者がグローバルリーダーとして成長するために必要なことを、私の半生を振り返り、その経験から綴っていきたいと思います。


私は第二次世界大戦中の1943年、横浜の三ツ沢で生まれました。しかし、空襲が激しくなり、中国大陸の方が安全だろうということで、祖父と祖母、母親と共に満州へ疎開しました。

満州には4年ほどいました。1945年に終戦を迎えても、引き揚げ船がなかったので2年ほど帰れませんでした。私が当時満州で住んでいた家は結構大きかったらしいのですが、日本人はいませんでした。そこにソ連軍が占領してきました。満州ではいくつかの家族と一緒に住んでいましたが、全員ソ連出身。ですので友達は全員ロシア人で、私もロシア語が話せるようになりました。

終戦後、ソ連軍が満州に侵入し、私たちの家にも土足で踏み込まれ占領され、私たちは家の隅っこで生活することになりました。これを肌で感じた私の祖父母がロシア語が嫌いになり、満州から日本に引き揚げた時、親からは「極力ロシア語は忘れるように」と言われました。

しかし、私の脳裏にはロシアが刻み込まれていたのです。父親や祖父からはイギリスに滞在していた経験を聞かされていましたし、戦後のアメリカは超大国の道を歩んでいた。幼少の頃から、自然と私の目線は世界に向いていったのです。
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文=田崎忠良

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