実は、業績悪化で数千人規模のリストラをする外資系証券会社社長や、職員の組織に対する満足度が低く「あそこは大変だよ」と言われた世界銀行のグループ機関トップなど、火中の栗をあえて拾うような仕事に果敢に挑んでいるように見える。危機的な状況だからこそ挑戦が楽しい、と語る彼女のキャリアのターニングポイントとわくわくの原点を聞いた。
──振り返ってみて、ご自身のキャリアのターニングポイントはどこだったと思いますか?
一番は、日本の会社を辞めて外資系のメリルリンチ・フューチャーズ・ジャパンに移った時ですね。自分のキャリアを自分の意思で変えた瞬間だったと思います。新卒で1981年に三菱化成工業(現:三菱ケミカル)に入社した時は、4年生大学を卒業した女性の新卒採用はほとんどなく、選択肢が限られていました。
4年勤めた後に「もうちょっとチャレンジしたい」と転職を考えたら、今度は転職市場がまだ育っておらず、ほとんど外資系に限られました。
メリルリンチでは最初、先物取引などの金融派生商品(デリバティブ取引)の決済や事務を行うバックオフィスをしていました。デリバティブ取引が金融商品として発展している段階で、バックオフィスでしたが専門職としての専門性を身につけることができました。それを核にして、自分の仕事の領域を少しずつ広げていきました。
──転職した時は、事務職から専門性を高めて管理職になる、というようなビジョンを持っていましたか。
そんなこと全然考えてなかったですよ(笑)。たまたま入って、続けていくうちに専門性が高まってきました。何かを目指すというよりは、仕事をする中で成長して、周りにも評価してもらえるようになり、次のチャンスが与えられる。その繰り返しだと思います。
──2001年にメリルリンチ日本証券社長に抜擢され、初めての仕事が会社の立て直しでした。従業員約3000人をほぼ半減させるリストラは大変な仕事だと思いますが、どのように仕事の達成感やモチベーションを持ちましたか。
リストラで達成感を感じるというのはないですが、リストラする人たちに納得してやめてもらえるように努めました。むしろ、大変なのは残った人たちの方です。
大きなリストラをすると、次は自分かもしれないと社員は後ろ向きになります。特に外資系ですので、本社は日本市場に対してコミットしているのかと、皆が不安になっていました。
我々がリストラをしたのは、前に向かって進むためです。残った人たちに自分たちが何を目指して進んでいるのかというビジョンや、そのビジョンを達成するための戦略を共有し、前に向かって進めるマインドセットに変えました。3年ほどかかり復活しました。さまざまな障害を乗り越えて次のステップに拡大できたのは達成感を感じました。
──ご自身はどのように変わりましたか。
自分が変わったわけではないですが、自分流のマネジメントのスタイルを確立できました。社長になったばかりの時は模索していましたね。私のスタイルは、自分1人で走らせるのではなく、チームの力を最大限に活用し、自分が持っていない能力を補って進めていくスタイルです。
結局のところ、自分が持っているものはすごく限られています。「自分の最大の武器は何か?」と常に考え、持っていないものをどういう風に埋めるか、というのを試行錯誤しました。持っていないものは、持っている人に助けてもらえばいいと開き直って思えるようになりました。
私の最大の武器は二つあります。一つは、皆の意見を聞きながら、答えを見つける調整能力。もう一つはリストラなどの危機的な状況でもひるまないところです。