寛容な多文化主義政策が頓挫した国、オランダで何が起きたのか

オランダの首都アムステルダムの街並み(Paulo Amorim / Getty Images)


理想像に近いインクルーシブな多文化主義システムを作り上げたオランダだったが、現実には、移民の社会統合は進まず、オランダ人との間にできた溝は埋まらなかった。

1999年から2004年の間の平均では、15歳〜64歳の生産年齢人口の移民(EU加盟国は除く)の就業率は58パーセント弱、オランダ人の就業率より2割以上低い。1973年のオイルショックや2008年のリーマンショックなど不景気のたびに移民の失業率は跳ね上がったが、とくに2世の若者層の失業は高いレベルで推移している。

移民の多くは、以下に述べるようなエスニック地区で育ったため、オランダ語が話せず、国の文化やしきたりにも疎く、低学歴・低スキルというハンディキャップを負っている。かれらのような「落ちこぼれ」を大量に出した責任は、多様性(ダイバーシティ)を尊重するあまり、マイノリティの融合をないがしろにしてきた政府にあるというのがもっぱらの意見だ。

福祉が充実したオランダでは、失業・貧困化した移民たちは国民と平等に手厚い生活保護を受けることができる。ここでもダイバーシティが重んじられる。その極端な例として、ムスリム女性の福祉をめぐる訴訟問題(2007年)がある。

ブルカ(全身を覆うベール)を常時着用しているため職に就けないムスリムの女性に対して地元の役所は生活保護の給付を拒んだ。しかし、法廷は市の処遇を差別的と判断し、女性の宗教の自由と福祉の権利を認めた。

ダイバーシティ支持派としては歓迎すべき判決だが、オランダ国民の多くは眉をひそめた。寛容もここまで度を越すと福祉に依存する移民が増え続け、福祉をお目当てに移住してくる外国人が増え、国の福祉行政が破綻するのではないかと。

オランダのアムステルダム、ハーグ、ロッテルダムなどの都市や地方の小都市には「ディッシュシティ」と呼ばれる移民居住地区が多く点在する(ディッシュとは移民たちが母国の番組を見るために外壁に取り付けた衛星アンテナのこと)。これらのエスニック地区には貧困や暴力が蔓延し、外の人間を寄せつけない隔絶された空間と化している。そのため、多文化政策失敗の象徴のように見られている。

移民たちが集住してできたエスニックタウンは世界中のどこの都市でも散見できる。米国ではロサンゼルスのリトルトーキョーやニューヨークのチャイナタウンが有名だ。元は、白人社会から差別され疎外された移民たちのサバイバル・自己防衛の空間だったのが、今では、観光スポットとして訪問者の目や胃袋を楽しませてくれる。

しかし、オランダのディッシュシティの場合、外来者を拒むように孤立し、オランダ国民から疎まれる存在になってしまった。

さらには、若者層(移民の2世たち)の中にはラディカルな宗教観やテロ思想に傾倒する者が出てきて、国民に不安を抱かせている。

中でも、2004年11月、アムステルダムの公園で、映画監督テオ・ファン・ゴッホ(画家ゴッホの子孫でイスラム教徒を敵視していた)がモロッコ系2世に暗殺された事件は社会を震撼させた。犯人の残虐な手口もさることながら、西洋を敵視する宗教的動機に、世論は「言論の自由(イスラム教による女性抑圧を映画化したゴッホ監督の表現の自由)」への挑戦と受けとった。また、「マイノリティ保護」の立場から、国内のイスラム過激派にも弱腰な政府への不信感を強めた。

移民たちの社会統合を促すという本来の目的とは裏腹に、オランダの多文化政策はかれらの孤立を深める一因となってしまった。さらには、反グローバリゼーション・外国人排斥を叫ぶ新興右翼の恰好の標的となっていく。

連載:多文化共生主義の憂鬱
過去記事はこちら>>

文=遠藤十亜希

ForbesBrandVoice

人気記事