不確かさは最後までぬぐい切れないものだという前提の上で、「なぜそれを食べてみる必要があるか」「食べてみたいと自分は本気で思っているのか」などと、そもそもの動機に確信が持てるのであれば、目をつぶる勇気が出てくるものです。
僕が新規事業創造や組織活性化などの案件でご一緒させていただく経営者の方々も、ビジョナリーな方であればあるほど従業員の失敗を奨励する傾向にあります。
失敗から学びを得るだけではなく、「失敗する可能性がある意思決定の経験を積む」ことで、新しいことを始める耐性を持たせるという、彼らの真意があるのではないでしょうか。
僕の場合は、日ごろから「目をつぶって口に入れる耐性」を付ける意味でも、「初めましての人が多い飲み会に勇気を出して出向く」「定期的にサウナの新規開拓をする」「たまには分不相応な高級レストランに行ってみる」などの習慣を取り入れています。人生をかけた大勝負の時にいきなりコンフォートゾーンを飛び出そうとしても二の足を踏んでしまうので、普段から、ともすれば「無駄な結果」になるかもしれない事柄に「飛び出し慣れておく」ことが大事です。
社会のさまざな領域で、これまでの前提や勝ちパターンが覆り、不確実性の高まりが騒がれ続ける昨今、「好き嫌いを活用する」ことに再評価が集まっています。
一方で日本人は、失敗に対しての寛容性が低く、加えて公の場において自分の主観や好き嫌いを行動の根拠にすることを忌避し、客観指標に頼りがちではないでしょうか。
あらゆるモノゴトに誰かのレビューが存在しているような気がする今を生きる我々は、好き嫌いをはっきり他者にさらけ出すことそのものに恥ずかしさを感じやすくなっているのではないでしょうか。
若者たちの悩みの根底には、こうしたギャップを目の当たりにし、正しさや正解さがしだけでは新しい価値を創り出すことが困難になりつつあることへの気づきや違和感が、その恥ずかしさとともにはっきりと横たわっているように感じます。
まずは試食から始め、経験の多様性を自らの中にはぐくみ、徐々に確信できていく自分の主観や好き嫌いを信じて、目を閉じて口に入れる。
どうなるかわからない世の中だからこそ、そんな「食べたことのないものを食べてみる」勇気が、豊かに生きるカギになっていくのです。
連載:あたらしい”違和感”
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