貧困を救うのは寄付ではない投資家が抱え込む数兆ドルの資産だ
Oゾーン法の始まりは、07年のタンザニア西部の丘陵地にさかのぼる。パーカーはフェイスブックからの退任劇のあと、ここで国連による経済開発事業を見学していた。そして、極度の貧困地域に民間投資を呼び込む難しさを目の当たりにする。米国に戻ったパーカーは、ワシントンDCやサンフランシスコ周辺の衰退地域も似通った問題を抱えていることに気づく。このころソーシャルメディアブームの効果で、パーカーのスタートアップ仲間の多くが株で何百万ドルも儲けていた。だが「その利益を動かそうとする人はほとんどいなかったんだ。寝かせたままの金をどうしたら投資させられるかを考え始めた」。
パーカーはこの問題に夢中になった。「ピーター・ティールが、実現できないほうに100万ドルを賭けると言ったんだ」とパーカーは笑う。「それもモチベーションのひとつになったよ」。
パーカーが成功しないほうに賭けるのは難しい。1999年に設立したナップスターはレコード業界を破綻させ、後に著作権侵害訴訟の殺到を招き自らをも破綻させた。2004年には友人のパソコンでフェイスブックを目にしたすぐさま、若き日のザッカーバーグとニューヨークの中華料理屋で会う約束を取り付けた。翌年はフェイスブックの初代CEOとして過ごし、その規模を拡大したが、後に投資家と衝突し、同社の株式を保有したまま退任。そのシェアのおかげで、彼はフォーブスが現在26億ドルと推定する純資産を築くに至った。その後のスポティファイへの初期投資も慧眼だ。
最近ではその関心は慈善事業に向けられている。ここ4年間の寄付額は4億ドルを超える。だが、「貧困を救うのは寄付ではない」とパーカーは言う。「必要なのは、投資家が抱え込んでいる数兆ドルの資産だ」。だから税制優遇策こそが必要だ、と。
まずパーカーはエコノミック・イノベーション・グループを、独立性が高く、超党派で、機動力のあるチームに再構築した。「米国の貧しい人々の利益を代表するチームにしたんだ」。このチームを運営するため、パーカーはスティーブ・グリックマン(オバマ大統領の元上級経済顧問)やジョン・レッティエリ(政府活動のベテランでチャック・ヘーゲル上院議員の外交政策補佐官を務めた)を集めた。さらに、経済諮問委員会には、トランプ大統領の主席経済顧問であるケビン・ハセットや、バイデン元副大統領の主席経済顧問だったジャレッド・バーンスタインが名前を連ねた。
エコノミック・イノベーション・グループは立案のために何百人もの連邦議員と面談し、調査の結果を共有して意見を聞き、支持者の基盤を築いていった。パーカーは数カ月おきにワシントンを訪れては面談マラソンをこなし、少しずつ支持の約束を取り付けていった。連邦議会の議事堂の廊下をひたすら歩き回り、深夜に有力議員に電話をかけては取り組みの進捗を伝えた。法案が具体化するにつれ、スティーブ・ケースやジム・ソレンソン、マイケル・ミルケンといった富豪起業家も仲間に加わるようになった。
16年になると、Oゾーン法案は民主・共和両党の72人の連邦議員の支持を勝ち取っていた。この法案は、イデオロギー上の“サーフ・アンド・ターフ(魚介類とステーキという水陸両方の食材を盛り合わせた料理) ”だった。共和党にとっては、減税、市場に基づく解決策、州や地方政府に権限をもたせる手段を約束するものだった。一方で民主党は、早急に財政支援が必要な地域に、資金が流れ込む可能性を気に入った。
この法案には他にも有利な点があった。新しかったことだ。「まったく新しいアイデアには、反対勢力はまだ組織されていないからね」とパーカーは笑う。
オバマ政権の任期が終わりに近づきつつあった16年の4月、スコットとコリー・ブッカー(ニュージャージー州選出の民主党議員)が上院議会に法案を提出した。下院議会では、パット・ティベリ(オハイオ州選出の共和党議員)とロン・カインド(ウィスコンシン州選出の民主党議員)の両名が法案を提出。当初、単独法案として法制化を目指していたが、彼らは、迅速に審議が進められる法案を待ち、それに便乗するのが最善の策だと判断する。パーカーは、ロサンゼルスにある自宅の豪邸でヒラリー・クリントンのための資金調達イベントを開催した立場だったが、トランプの予期せぬ勝利は─そして、それに続く共和党の減税政策の推進は─思いもよらぬ“乗り物”をパーカーに提供してくれた。これは彼らにとって完璧なチャンスだった。より大規模な税制改革の一部として、Oゾーン法を盛り込んだのだ。
トランプ大統領が17年12月に税制改革法案に署名したとき、Oゾーン法はそこに含まれていた。だがこの法が注目されるのは、もう少し先のことだ。