持てる者に依存して生きるしかない、階層社会の生んだ深い諦観

左からアンドレイ・ズギャビンツェフ監督、エレナ・リャドワ、ナデシュダ・マキナ、アレクサンデル・ロジニャンスキープロデューサー(Francois Durand/by Getty Images)


エレナは平凡な女性である。どこと言って特徴的なところがない。人並みの欲望を持ち、人並みには善良で、子供や孫を思うおばあちゃんであり、夫には従順だ。

そんな女性が、緊張と不安に怯えながらも、どうにも後戻りはできないという決意でやすやすと一線を踏み越えてしまうことの、底冷えのするような恐ろしさが、画面から伝わってくる。

このドラマに登場する二人の男、ウラジミルとセルゲイは、富裕層と貧民層の違いはあるものの、女性に対し高圧的で尊大な振る舞いを崩さない。彼らはロシアの典型的な男性として描かれている。だからウラジミルに抑圧されてきたエレナとカタリナは、本当なら手を結べる関係にあるのだが、エレナにとってカタリナは資産家の娘、つまり「あっち側の人」でしかない。性の分断より深くエレナの心を蝕む階層の分断。

もちろんエレナの本心は表面化しない。企みは辛くも遂行され、持てる者の資産は”弱き者”たちに分配され、何事もなかったかのように、場面は冒頭のあの印象的なシーンに戻る。

おそらくエレナの中でも、何事もなかったかのように出来事は風化していくだろう。理不尽なまでに不平等で閉塞的な社会の中で、イリーガルな方法で生き延びるため良心を摩耗させたエレナ。彼女が法的に断罪されてしかるべきだとは、私には言えない。

連載 : シネマの女は最後に微笑む
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文=大野 左紀子

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