高野山に集まる企業戦士。受け入れる空海の懐

Gary Koutsoubis / Getty Images

今からおよそ1200年前、真言宗の開祖・空海が開いた高野山。とはいえ、高野山という名の山があるのではなく、真言宗の総本山である金剛峯寺を始め、117もの真言宗の寺院が集まったこの地域全体を指す。このあたりは標高約1000mの山上にぽっかりとできた盆地で、周囲を山々が囲んでいることから、蓮の花に例えられている。

さて、そんな高野山の奥之院には戦国武将や大名の墓や供養塔が集まっている。なぜ、歴史上の人物の墓や供養塔がここに集まっているのか。そこには、時代を超えて日本人を魅了する空海の存在が色濃く反映されていた。



意外に知らない高野山。社会事業も手がけた空海の痕跡

空海は、逸話と伝説に満ちた人物だ。讃岐国(現在の香川県)で地方の豪族の息子として誕生したのは774年のこと。母方のおじの勧めにより、最高学府である大学に進んだエリートだ。ちなみに、当時の大学は最高学府ではあったが、現在の大学とは違い、官吏養成機関だった。

その大学でそのまま真面目に勉強していれば官吏への道が約束されていたにも関わらず、空海はその道を捨ててしまった。山林にこもって修行し、大学を途中でやめてしまったのだ。そして、初めての著書「三教指帰(さんごうしいき)」を著す。その中で、大学で学んだ儒教や道教よりも仏教が優れていると指摘し、事実上の出家宣言をしたのだ。

その後、謎に満ちた20代を過ごした空海は、31歳になった804年に遣唐使船に乗り、唐への留学を果たす。当時の律令体制において、僧になるには国の許可が必要で、その人数は制限されていた。国から正式に認められた官度僧に対し、国の許可を得ていない僧は私度僧と呼ばれており、空海は私度僧だった。国策である遣唐使船に私度僧が乗ることは異例のことだっただろう。しかし、官吏や留学生を乗せる遣唐使船に欠員が出て席が空いたことや、有力者の後押しなどもあって実現したと言われている。

唐への留学の目的は、「大日経」を読み解くため(諸説あり)。大日経とは密教の重要な経典だが、サンスクリットで書かれていた上にその内容が難解だったためだ。

2年の留学を終えた空海は、日本で真言密教の修行道場を建てるのにふさわしい場所を探そうと、唐の明州の浜から密教法具の三鈷杵を投げた。その三鈷杵が見つかったのが高野山だという伝承が残っている。ちなみに、高野山には三鈷杵が引っかかっていたとされる松が残っており、三鈷の松と呼ばれている。
次ページ > 土木技術も学んだ空海

文・写真=吉田渓

ForbesBrandVoice

人気記事