田坂広志の「深き思索、静かな気づき」


「敵は我に在り」という言葉は、スポーツの世界で、しばしば語られるが、この自意識過剰によって勝てる試合を落とした例は、枚挙に暇がない。

今年の全豪オープンテニスの決勝戦、第2セットでグランドスラム・ポイントを掴みながら、逆転され、そのセットを落とした大坂なおみ選手。

自制心を失った彼女の姿を見て、誰もが、このまま第3セットも落とし、試合を逆転されてしまうのではないかと思った。しかし、短い休憩から戻った彼女は、別人になっていた。

この試合を制した後、「あの場面で、どう気持ちを切り替えたのか」との質問に対し、大坂選手は、「感情を切り離してプレーをした」と答えた。

この答えを聞いて、「そうか、無心の境地でプレーをしたのか」と思われる読者もいるだろう。

しかし、誤解すべきではない。無心や無我とは、心や自我を消し去った状態のことではない。生身の人間である限り、それを消し去ることはできない。

では、こうした心や自我が揺れ動く場面で、我々は、いかに処すべきか。

自分の心の中で騒ぐ自我や自意識を、否定もせず、抑圧もせず、ただ静かに見つめる「もう一人の自分」

その自分が心の中に現れたとき、不思議なほど、揺れ動く心や自我は鎮まっていく。

実は、この状態こそが、「無心」や「無我」、すなわち「悟り」と呼ばれる境地に他ならず、この境地にあるとき、我々は、最高の力を発揮する。

しばしば、世の中では、「悟り」とは、長い年月の宗教的な修行を経て、最後に到達する永続的な境涯であると思われている。

しかし、そうではない。「悟り」とは、自分の心を静かに見つめる「もう一人の自分」が現れている瞬間を言う。その「覚醒」の状態を言う。

もとより、「覚者」と呼ばれるような永年の修行を経た人物は、その「もう一人の自分」が、瞬間ではなく、常時、現れている境涯に達している。

しかし、永年の修行を経ずとも、我々が一つの物事に懸命に取り組むとき、ときおり、この「無心」や「悟り」と呼ぶべき瞬間が訪れることがある。

あの一瞬、大坂選手の中に、「もう一人の自分」が現れたのであろう。

「悟り」とは、遥か彼方にある境涯ではない。

それは、与えられた一日を、そして、この一瞬を真剣に生き切るとき、目の前にある。


田坂広志◎東京大学卒業。工学博士。米国バテル記念研究所研究員、日本総合研究所取締役を経て、現在、多摩大学大学院教授。世界賢人会議Club of Budapest日本代表。全国5000名の経営者やリーダーが集う田坂塾・塾長。著書は、本連載をまとめた『深く考える力』(PHP新書)など80冊余。tasaka@hiroshitasaka.jp

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