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一代で世界の「HONDA」を作り上げた本田宗一郎は、時に自動車としては常識破りな方法で、障壁を突破してきた。

1965年、日本メーカーとして初めてF1優勝を成し遂げたマシンには、随所にホンダが得意としたバイクの設計思想が見られ、自動車のお作法からすればまさに「型破り」。19世紀末から自動車技術を磨き上げてきた欧州勢に比較すれば、当時のホンダの経験の少なさは明らかだ。

しかし、「今手元にある自らの強みを極限まで研ぎ澄ます」ことで弱点を補い、結果、世界の頂点まで獲ってしまった。優勝の瞬間、「世間知らずな無謀」は「イノベーティブ」に変わったのだ。

初期のスポーツカーづくりも同様。自動車としては極めて稀な構造であるものの、機械としての精緻さは、世界で驚きをもって迎えられた。ちなみにその昔、赤いクルマは緊急車両と紛らわしいとして禁止されていた。そこに立ち向かい、結果、許可を取り付けたのも、実はホンダが最初だった。



ライト兄弟の兄、ウィルバーが1903年に256mの初飛行に成功すると、この「空飛ぶ機械」でひと儲けしようと特許を申請、ライバルたちが少しでもそれを侵害するように思えたものなら国内外構わずにどんどん訴えた。それと同時に世界各国に自分たちの技術の売り込みをかけていった。

そのひとつに日本国陸軍があり、06年4月に彼らが出した書簡によれば、「我々は時速48km以上で人を運ぶフライヤー(空飛ぶ機械)を提供できる。購入後は関係者1名の訓練付き」と。それに対しての陸軍省からの返事は「我が国では不要」とけんもほろろであった。

米軍も「国の代表的な科学者でえさえ成功していないのに」と、兄弟のことを開発資金狙いの詐欺師だと思っていたようだ。ちなみに兄弟はともに生涯独身で「飛行機と女性は両立しない」と言っていた。



コンテナによる海上輸送が始まったのは1956年と、意外にも最近のことである。トラック1台から陸運会社を始めたマクリーンは、沿岸道路での渋滞中、海運業は船を運航するだけではなく貨物を運ぶ産業になり得ると気づく。

トラックの荷台だけ切り離して積むというアイデア、それを軸とした港・船・クレーン・倉庫・トラック・鉄道と「海運業」そのもの、これらすべて一連のシステムが「コンテナリゼーション」という発明であった。当時は法律で陸運・海運のすみわけが決まっていて、この考え方は革命的発想だったのだ。

「とにかく契約をとってとってとりまくろう。のし上がるにはそれしかない」と歯を食いしばり、少しばかりの立身出世では全く満足できなかった一トラック運転手の上昇志向が既得権益や規制との戦いに勝ち、世界の物流を変えた。

関連:part1 part2

文=三井三奈子 イラストレーション=ジョエル・キンメル

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