経営学者のピーター・ドラッカーは、人と企業の利害が一致した稀有な例として、高度経済成長期の日本を挙げています(*2)。当時は人々が会社のいいなりになっていたのではなく、猛烈な働きに対する再分配によって、金銭や住居、家庭といった当時の人々の望みが満たされていた。当時の日本にとっては、ぴったりだったというわけです。
篠田:そうでしょうね。しかし、それは高度成長期にのみ成立した話で、普遍的なモデルにならないでしょう。いま日本で経営の中心にいるのは、その文化の真っ只中で社会人をスタートした人々。彼らは、それでビジネスパーソンとして成功した。そのため、意識的にか無意識か、彼らは当時と変わらぬモデルを前提においたまま経営してしまいがち。社会環境的にそれはいよいよ無理だと、腹の底から気づかなければなりません。
佐野:長期的な成長や持続が高い確度で見込めるインフラ企業などでなければ、不可能ですよね。
篠田:だからこそ企業と従業員の関係性を変えなければならないのですが、実はその点では日本企業にも独自の有利さがあると聞いたことがあります。アメリカの企業は人事部門の役割が多くの日本企業より弱いからです。向こうでは労働法規制が日本と大きく異なることもあり、原則として、社員の採用や評価・退職勧告の権限も実務も、各部署の長が持っています。人事部は主に社会保険や給料の振込といった事務的な仕事を担うということです。
それに比べて人事部が採用から解雇まで広範な影響力をもっている日本では、組織全体のビジョンに応じて組織を変えやすい。トップが明確なビジョンを打ち出すことさえできれば、伝統ある日本企業でも、それに合わせて企業と従業員の関係を作りなおすことができるのかもしれません。
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佐野:なるほど。それでなくても、日本人は欧米の働き方に憧れすぎている節はありますよね。
篠田:はい。能力主義を徹底するシリコンバレーの組織は、かなり殺伐としているそうですね。
佐野:海外の組織論の専門家の中では、シリコンバレーの企業文化が必ずしも事業にとって良い影響にはならないという意見もあります(*3)。急成長のみにフォーカスしたり、スキルばかりで人材を判断する組織では、モラルのブレーキが働きづらい。
篠田:能力や成果だけで社員を評価するということは、裏を返せば人格破綻者であっても仕事をこなして法律を破りさえしなければ問題ないということですからね。
佐野:その意味でも、僕は日本企業は「能力」主義を目指すべきではないと考えています。とはいえ、信頼を基盤にした組織をつくるのは簡単ではありません。信頼は積み上げるのは難しいわりに、崩れる時は一瞬ですからね。