「弁当」をめぐる手違いが妻に与えた不安と勇気

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二人にはそれぞれ、常に脇にいる同性がいる。イラにはアパート階上のおばさん。いつも声だけで一度も姿を見せない彼女だが、おかずの味付けに悩むイラに窓からスパイスを入れたカゴを降ろしてくれたり、何かと励ましてくれたりする頼れるアドバイザーだ。なぜおばさんが姿を見せないのかも、ドラマの中でわかってくる。

サージャンの傍にいるのは、テンション高めの後任の新人社員シャイク。煩いほどつきまとって指示を仰ごうとする彼と無口なサージャンは、当初まったく反りが合わない。

しかし徐々にサージャンの心が、シャイクにだけでなく外界のすべてに柔軟に開かれていく様が描かれる。それは、弁当を介したイラとのコミュニケーションに端を発する。

翌日の弁当箱に、名前も知らない相手に向けてイラが御礼の手紙を入れたことから、二人のやりとりが始まる。弁当箱の底にメモをしのばせるだけだが、変に湿っぽくならないところがいい。

無粋だが正直なサージャンが「今日のは塩辛かった」と書けば、プライドの高いイラは翌日、空の弁当箱で抗議。そして次の日は香辛料たっぷりのおかずでやり返す。それにユーモラスな短い文面で応答するサージャン。軽いジャブの応酬といったところだ。

このドラマはイラの作る美味しそうなカレーや煮込みやナンが出てきて食欲を刺激するが、匂いの描写も興味深い。

いつもの緑色の弁当の袋がデスクに置かれると、思わずそっとファスナーを開けて匂いを嗅ぎ、笑みの漏れるサージャン。一方、イラは洗濯機に放り込む前の夫のシャツの匂いを嗅ぎ、せつない表情を浮かべる。

自分の弁当を喜んで食べてくれるのは、どこかの他人。サージャンが食べる予定だった業者の弁当をそれと知らずに食べている夫は、感想を聞かれて「美味しかったよ」と義務的に答えるのみ。ああ、この人は私の弁当でなくても、いや私でなくてもいいのね‥‥と妻が感じるのは無理からぬことだ。

二人が結ばれることはないかもしれない

やがて文通の中で、イラとサージャンは自らの境遇を吐露し合い、互いに孤独であることを知る。ジメジメとしていない、ウィットと含蓄に富んだやりとりが、いかにも大人らしく抑制が利いていて好もしい。

近年著しく発展するインドの、陰の部分も垣間見える。サージャンの弁当の相伴に預かり、業者のものと聞いてその美味しさに「これならもっと売れる」と言うシャイクに、「この国は能力を評価しない」と返すサージャンの台詞は示唆的だ。

それは、料理の腕や家事能力が正当に評価されない、イラのような専業主婦の立場を汲み取った言葉である。第三回で取り上げた『マダム・イン・ニューヨーク』でも描写されていたように、インドにおいて家庭にいる女性の地位はまだ低い。

やがて二人の文通はやや踏み込んだ内容へと発展し、イラはサージャンと会うことを決める。

さあやっと本格的にロマンスが始まり大団円に傾れ込むぞ……という期待は、しかしあっさり外れる。実に謙虚で奥ゆかしい展開なのだ。イラは幼い娘を連れてサージャンの職場を突き止めるが、ここでもすれちがいが起こる。

二人が結ばれることはないかもしれない。だがシャイクの台詞にあったように、「間違ったバスに乗ってもいつかは正しいところに着く」だろう。弁当の誤配をきっかけとして、サージャンは生きる歓びを取り戻し、イラは自分の人生に立ち向かうきっかけを得たのだから。

連載:シネマの女は最後に微笑む
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