思いだけでなく、感情を共有できる同志
そのころ、国が進めていた総合特区制度を申請しようとしたのだが、福岡市は商業都市、北九州市など他のエリアは工業都市と全く地域の実状が異なっているのに、関係者の意見は、「三者一つに混ぜ合わせて提案する」とのことにまとまった。混ぜ合わせると地域にふさわしいものではなくなるが福岡県全体の調和を第一とする風潮が未だ根強かったのだ。
結局、北九州市、福岡市、福岡県の三者により、都市環境インフラ関連産業や技術をパッケージ化し、アジア諸都市に広めていくという「グリーンアジア国際戦略総合特区」に決まった。しかしこの特区では、福岡市の強みは活かされない。福岡市は商業都市なのに、内容が工業を中心としていたからだ。
その後、大きな転機が訪れる。高島宗一郎福岡市長の誕生だ。初めて自分よりも年下の市長であり、多くの意味で「新しい」印象を的野は感じたという。また国も新しい特区制度を発表した。国家戦略特区である。
表面的でなく、どのような施策を行えば根本的に福岡市の経済が成長するのか。様々なデータを探していくうちに、ふと興味深い数字を見つけという。それが「日本で新しい雇用を生んでいるのは、若い企業が中心である」というもの。3年以内に設立された会社の数自体は日本で全体の数%に満たないが、新しく生まれた雇用のおよそ4割はそうした設立間もない若い企業が創出した雇用であった。この数字であれば、上司や国も説得することができると的野は確信したという。
「福岡市は大企業の支店が集まる、いわゆる「支店経済」の街。それ自体が悪いのではありませんが、景気が悪くなると一番最初に人が切られてしまい、景気に左右されやすいというデメリットがあります。観光業などひとつだけの産業にフォーカスを当てても、福岡市の支店経済は変わらず、限界があると感じていました」
しかし、そう簡単に事は運ばなかった。
スタートアップや創業期の企業を支援するといっても、その業種が定まってないと難しいと跳ね返されてしまったのだ。的野は、産業分野関係なく、創業期、もしくはこれから創業する会社すべてを支援したかったが、当時は、国もどの分野を支援するのかに関心が高く、まだスタートアップ支援は成長戦略と理解されてなかった。また、経済界の重鎮からも福岡市にはスタートアップは無理だと釘を刺された。そうして、前回の特区同様に県内での検討がはじまり、スタートアップ支援の計画はお蔵入りしそうになった。
しかし福岡市役所の中で、的野だけは福岡市単独でスタートアップの国家戦略特区の申請を進めるべきだとの姿勢を貫いたという。その姿に、次第に職員を中心に「福岡単独で進めていくか」という変化が生まれはじめた。
「『福岡市単独でスタートアップの国家戦略特区の申請を行う』ということは、日本でも未知の分野でもあり、市にとってハイリスク、ハイリターンの選択でもありました。その大きな決断を、高島市長がリードしてくれたんです。市長とは思いを同じくする同志である以上に、感情を同じくすることができる数少ない人です。『福岡をこうしていきたい』『こういう未来を描いていきたい』という思いを同じくする人は多いのですが、悔しい、嬉しいという感情の部分でも、高島市長とは通わせることができます」
その後、2014年には国家戦略特区(創業特区)に福岡市は認定された。
現場主義の「的野イズム」が息づく、スタートアップ・シティ
周りからも反対される中、的野が自らの主張を曲げることなく、諦めなかった原動力がどこにあったのだろうか。
「いまこうして振り返ると、どこか『悔しさ』があったのかもしれない。自分が市役所に戻ってきたときもどこか孤独を感じたのは、自分は現場で苦情を処理し、市民のむき出しの感情に向き合い続けたのに、市役所職員の中には市民よりも上司ばかりを気にして、やる気がないような職員もいるように感じたから。しかし行政が本当に大切にすべきなのは、法律やルール、『偉い人が言ったこと』ではなく、市民や現場で頑張っている人たちの声だと思っているし、彼らのためにも諦めることはできなかった」
この「的野イズム」は的野の部下達を中心に、次第に福岡市役所の職員の考え方、スタンスは少しずつ変わりつつある。目に見える施策が注目されがちだが、的野の本当の功績は市役所の組織文化を少しずつ、「現場主義」へと変えていったことだろう。だからこそ、「スタートアップ・シティ」として福岡市全体が創業期の企業を盛り上げようというカルチャーが生まれ、起業家からも熱い支持を受ける自治体に成長できたのだろう。