南アフリカ・ウエスタンケープ州で自身のワインブランドを手がけるヌツィキ・ビエラは、ステレンボッシュ大学でゼロからワイン造りを学び始めた当時のことを、こう振り返る。
ヌツィキの手がける「ASLINA(アスリナ)」は今年、日本人女性だけが選考委員を務める「サクラアワード」で金賞を受賞。去年4月には、南アフリカの大手小売店チェーンからの融資で、ワインの生産量は1万7000本にまで増えた。
大学入学までワインに全く触れてこなかった彼女は、現在に至るまでどのような道を歩んできたのだろう。
──元々ワインには興味がなかったとお聞きしています。そんなヌツィキさんは、どのような経緯で醸造学を学ぶことになったのですか?
私は南アフリカのクワズール・ナタール州で生まれ育ちました。海岸沿いに位置する州の、500人ほどの黒人しかいない小さな村が私の故郷です。従姉妹や親戚も一緒に暮らしていたので大家族でした。
近所の子ども達も家族同様に育ち、学校から家に帰る前に近所の友達の家で夕飯を食べて帰宅することもよくありました。村全体が私を育ててくれたのです。
幼い頃から、祖母が「立派な仕事」と言っていた測量士に憧れて、高校では測量士になることを念頭に土木工学を専攻したいと思っていました。しかし、他の多くの生徒達も同じことを言っていたので、急に興味がなくなってしまったのです。
そんな中、たまたま南アフリカ航空の奨学金制度を知りました。彼らが機内で提供する南アフリカワインの業界に全く進化がないことに危機感を抱いて設立された制度です。ここでトップの成績を収めることができれば学費はゼロ。家族への負担を減らしたい一心で勉強して、奨学金制度で1999年から2003年にケープタウンのステレンボッシュ大学でワイン醸造学を学びました。
──ワインを学んだ大学生活はどうでしたか?
大学に入学したばかりの頃は過酷な毎日でした。環境、言語、文化、クラスメイト、全てがこれまでとは異なるものでした。今も鮮明に覚えているのはオリエンテーションの日のこと。構内の案内も、全てアフリカーンスというこれまでに触れることのなかった言語で記されていて、会場にやっとの思いでたどり着いたものの、内容は全く理解できませんでした。
クラスも白人がほとんどで、黒人は一握り。このままでは授業どころではないと焦った私は大学にこの事を訴え、チューターをつけることができました。その後も毎日、学位を取得するために自分との戦いの日々。授業をより理解するためにアフリカーンスも猛勉強しました。