異性愛規範を超えて、女が自分の本当の欲望に気づく時

左からフランソワ・オゾン監督、アナイス・ドゥ・ムースティエ、ロマン・デュリス(Tommaso Boddi/by Getty Images)


二人の関係性は「妻を亡くした男と妻の親友」から「気持ちを許し合った二人の女」へ、「ダヴィッドとクレール」から「ヴィルジニアとクレール」へと変化していく。が、夫ジルに嘘をついてダヴィッドと別荘に行っていたことがバレたクレールは、二人の関係を疑う夫に咄嗟に「ダヴィッドはゲイ」と言ってしまう。
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その結果、3人で会う時ダヴィッドはゲイを演じるはめになり、クレールの中では逆にヴィルジニアへの思いが募ることとなった。

ヴィルジニアを愛することは、ダヴィッドを愛することなのか、それとも間接的にローラを愛することなのか。いや、ヴィルジニアは独立した一人の女性であり、ダヴィッドはむしろ偽りの姿、そしてローラはもうどこにもいない。

ローラを介することなく、直にヴィルジニアと向き合い、同時に自分の欲望とも正直に向き合わねばならない。果たして私は女より男と結ばれている方が幸せなのか、と。
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ヴィルジニアの告白を全面的に受け止め切れずに逃げたクレールは、土壇場で、失いかけているものの大きさ、そして自分の本当に求めてきたものに気づく。

七年後のラストシーンを、あなたはどのように読み取るだろうか。成長したリュシーの学校のお迎えにやってきた二人。リュシーを中にして手をつなぐヴィルジニアと妊娠したお腹の目立つクレール。それはさまざまな壁を乗り越えて、彼女たちが辿り着いた家族のかたちだ。自身のジェンダーとセクシュアリティをまっとうした二人の後ろ姿は、幸せに満ちて清々しい。

連載 : シネマの女は最後に微笑む
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文=大野 左紀子

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