異性愛規範を超えて、女が自分の本当の欲望に気づく時

左からフランソワ・オゾン監督、アナイス・ドゥ・ムースティエ、ロマン・デュリス(Tommaso Boddi/by Getty Images)


妻に死なれた悲嘆と母を失った一人娘への哀惜から、ふと亡き妻の残り香が匂う衣服を身につけているうちに、パートタイムの女装の楽しみがジェンダーの根本的な変化へと繋がっていく様子が、ダヴィッドの姿を通して描かれる。

体型は男性にしては華奢だが、彫りの深い顔立ちにヒゲの剃り跡も青々としたダヴィッドの女装とメーク、そして女らしい物腰は、クレールにとっては違和感以外の何ものでもない。戸惑いつつも彼女は、ローラの死という共通の喪失感を分け合うため、ダヴィッド=ヴィルジニアに密かに協力していくことになる。

この時点でクレールは、自分の中に何が起こりつつあるのかまだ気づいていない。だが、華やかなタイプだったローラと比べて地味なファッションだった彼女が、外食の時に久しぶりにセクシーなドレスを着たり、ヴィルジニアの買い物に付き合って自分も真っ赤なワンピースを試着したりする場面に、変化の兆しが現れている。

ダヴィッド=ヴィルジニアの、「女」になること、「女」であることを心からエンジョイしようとする積極的な態度に、刺激を受けるクレール。ショッピング中の二人はまさに、仲良しな女友達そのものだ。

金髪のウィッグを被り、サイズ直ししたローラの衣装を身につけ、だんだん「女」が板についていくダヴィッド=ヴィルジニアの姿にクレールが幻視しているのは、ローラだろう。

トランスジェンダーのレズビアン

一緒に入った映画館で男に痴漢されたダヴィッドは、自身の性的欲望について「男に興味はない。いつだって女に惹かれる」とクレールに打ち明ける。

彼の性自認は男性から女性へと変化し、ダヴィッドではなくヴィルジニアとして生きたいと願っているが、その女性の心で女性を愛したいのだ。つまりダヴィッドは、MtF(Male to Female)トランスジェンダーのレズビアンということになる。

ジェンダーが女性であるからと言って、男性を愛するとは限らない。それは、トランスしていない(生物学的)女性においても同じ。逆に言えば、潜在的にはゲイやレズビアンであっても、異性愛規範の強い世の中で自分の欲望に気づかず、あるいはうすうす気づいても否定して、異性と結婚する人もいるのだ。

育児休暇中のダヴィッドは、娘のリュシーを預けてローラの母の持つ別荘にクレールを誘う。ローラの肖像画や写真が飾られたそこで、改めてローラの不在という事実をクレールは受け止めざるを得なくなる。

夜、おめかししてクラブへと繰り出し、ドラァグクィーンの歌手が「私は女」と歌い上げるのに聴き惚れる場面は、前半のクライマックスだ。多くの同性愛者やトランスジェンダーのカップルの中に自然に溶け込んでいるダヴィッド=ヴィルジニアとクレールの間柄は、単なる女友達以上に見える。

その夜、クレールが見るセクシーな夢は、彼女の中に眠っていた強い願いの現れと言えるだろう。本当の欲望はある時、無意識の中から顔を出す。
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文=大野 左紀子

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