「違い」を受け入れて享受する、それこそまさに「旅」の喜び

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出張先でのふとした瞬間に、「旅」を感じることがある。例えば、ミラノで仕事帰りのタクシーの中から去りゆく街並みを眺めた時だったり、ロンドンで小路を曲がった瞬間に開けた景色に遭遇した時だったり、ホーチミンシティの多くの人で賑わう広場に立った時だったり……。それらは視覚や触覚や嗅覚など、身体を刺激する五感とともにふいに訪れる。

その時、ようやく「私は異国に来ているのだ」と実感し、少しだけ嬉しく思ったりする。いつもと同じ仕事での「出張先」が、「旅の景色」として輝き出す。そして思う、今度はここに「旅」という目的だけで再訪したいと。

異国でこそ日本人らしく

海外への渡航経験が増えると、言葉の違いは確かにあるけれども、慣れというか、人種の違いなどへの違和感も減り、「世界中どこに行ってもみんな一緒」という思いが湧き出てくる。この思いは、多様性の受容という意味ではよいかもしれないが、異国での「生活文化」の大きな違い(GAP)をつい見落としたり、忘れてしまいがちになったりする危険性もある。

島国に暮らす日本人は、視野が狭く、他者や多様性への許容力が乏しくなりがちだとよく言われるが、逆に異国体験が多すぎて、慣れすぎるのも問題だと思う。これはまさに最近の自分自身がとみに感じていることでもある。

その「慣れ」とは、旅人だけでなく、例えば海外に長く住んでいる日本人にもしばしば見られる。仕事柄、海外在住の日本人の方ともお会いする機会が多いが、そのような人たちは、いわゆる日本人らしさや感性を活かした振る舞いを持ち続けている人と、そうでない人に二分されるように思う。

どんなに海外での暮らしが長い人であっても、日本人である限りは、異国にあっても日本人という固有性はなくならない、と私は思う。

もちろん、日本人が異国で暮らし、仕事で成功するためには、現地の文化や風習にとけ込み、その国のルールの中で自らの固有性を排除することも求められるのかもしれないが、だからといってその国の人間になることではないと思う。自らを多様性のひとつとして受け入れてくれた異国で、自身の固有性を尊重しないことには、逆に自らが多様性を排しているのも同然なのではないかと思うのだ。

それは日本在住の外国人の方でも同様で、それぞれの固有な違いがあるということを認めたうえで、本来持っている個性を尊重し、活かしながら「ともに暮らす」時、想像を超えた素晴らしい「化学反応」が起きるのではないかと思う。
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文=古田菜穂子

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