「自分で考えられない」若者 思考力を奪ったのは誰か?

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最初の問題文では、生徒が自らの考えを模索し、考え、その証拠を提示することを促している。生徒がすべきことは、思考し、自分の考えを表現することだ。一方で2つ目の問題文では、問題に関する議論は既に決着がついており、誰か他の人が唯一の正しい答えを知っていると示唆している。生徒がすべきことは、その人が正解だと思うものはどれかを考えることだ。

2つ目の問題文は、思考を妨げるものだ。「最も重要な証拠は何か」と問われた生徒の多くは自分の意見が問われているのだと思うだろうが、これに正解するためには自分の意見や考えを脇に置き、試験を作った人の意見や考えを予想しなければならない。

言うまでもなく、2つ目の問題文は標準化された多肢選択式テストの手法だ。この問題形式を学校の教育課程を通じて使用し続けることで、数学と文学の世界は探索と発見に開かれたものではなく、全ての問いには既に答えが用意され、いかなる探索も思考も必要ないものであるという考えを生徒に刷り込んでいる。生徒が学ぶのは、規則に従い、自分の前に敷かれた道から外れないようにすることだ。

標準化テストでは、その詩を書いた張本人でさえも答えられないような問題が出されている。選択肢を提示してその中からたった一つの“正しい解答”を選ぶという根本的な構造をやめない限り、私たちはこうした反思考的な世界から抜け出せない。一つ一つのテストや問いが、世界における知識や理解の本質に関して根本的に問題のある考え方を生徒に押し付けている。こうした問題は生徒に対し、自立的かつ自由回答型で探求心のある思考は世界を生きていくためには必要ない、あるいは望まれないものだという考え方を教えているのだ。

私たちは生徒たちに対し、自分では思考をせずに、テストの問題作成者が作った道に続くことだけを考えるよう教えている。全ての答えには正しい答えが一つだけあるということ、その正解をどこかの誰かが既に知っているということ、そしてこうした人たちが自分に望む解答を学ぶために学校に行くのだということを教えてしまっているのだ。

これは何も教育分野で目新しい問題ではないが、現在に至るまで強化され続け、幼稚園から高校に至る全課程に組織的に組み込まれ、よりいっそう奨励されている。これにより、自立した思考に対する意欲がそがれた世代が生まれたとしても、驚きではない。

編集=遠藤宗生

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