──映画作りの中で、わくわくする瞬間とはどんな時ですか?
正直には、映画を撮っているどの瞬間も楽しいです。
映画の制作について、私はそれが劇場公開されたら時間が終わってしまうというよりは、未来に向かって時間がずっと続いていくというイメージを持っています。つまり、生きている作家と生きている観客との間のスクリーンを通じた交流は、生きている限り、作品と人生が影響を与え合う時間として続いてゆくのだと思っています。
未来に向かって体験は続いていくものであり、作品が残るということを通して、そこに映された心が、心として存在し続ける限り、作品に魅了され、生きようと願う魂もまた存在するのだと思います。
──「未来に続く」ということがモチベーションなのですか?
そうですね。よく「子供時代はどのような経験をしたのか」と聞かれるのですが、自分の作品について、私はそれが過去から繋がっているというよりは、「死ぬ前にどのような人間のあり方を、物語を撮られれば悔いなくいまの仕事をやめられるのか」と、常に終わりへと助走してゆく感覚があります。
自分の今の仕事が、今から自分が死ぬまでの時間にのみ許されていると思うと、「まだまだやるべきことがある!」と感じてモチベーションが上がりますね。
──山戸監督が「来てほしい」と考える、「面白い」未来とはどんなものですか?
私は日本の社会において、世代・性別間の断絶を超えた他者への配慮が実現すれば面白い未来が来るはずだと思いますね。
西洋社会をロールモデルとした、積極的に公共倫理性を採用していく社会を目指すのも大いなるメリットがある一方で、マイノリティーが当事者として声をあげるという歴史背景を持たず、謙遜・我慢の美学を持つ東洋の日本においての社会的な不平等に対する向き合いは、「他者を慮る心」だけが、解決に対する究極的な問いとして残されると考えています。
作り手としても、そのような問題意識に対して、まだやるべきことが残っていると思っているので、いつかは「道徳」のビデオを撮りたいと思いますね。思春期の子供たちが、教室流れ作業のように観せられて、ハッと覚醒するような、そうした映像体験、映画体験を届けたいです。
──日本の映画界では女性監督作の割合はまだまだ低いです。女性監督を増やすために何が必要だと考えますか?
映画監督の男女差、特にメジャー公開される作品の監督は、圧倒的に男性が多いです。だからこそ、それを改善するためには、逆説的に「あらゆる手が残されている」と思っています。
小説家・漫画家・イラストレーターといった職業が女性でも活躍する人が多いですが、そういった職業と映画監督との違いの一つに、映画監督は「司令塔」としての役割の要素が強いということが挙げられます。つまり、女性の管理職が少ないという社会的問題とパラレルな形で、女性の映画監督が少ないことの真芯は存在しているのだと思います。
個人の努力や資質だけではなかなかその圧倒的な差は超えられません。そのため、権力構造に分け入っていってでも既存の形式を変えていくような構造的な改革も不可欠である一方で、あるいは、脱構造的なゆるやかな広がりに希望を見出すのか、できるアプローチは無限にある。自分自身が、現在という時間に対してどんな選択をするのかということこそが、作家として態度が問われていると、ふかく実感しています。
山戸結希(やまと・ゆうき)◎愛知県出身。上智大学文学部哲学科在学中に映画研究会を立ち上げ、2012年、初監督作品「あの娘が海辺で踊ってる」が東京学生映画祭で審査員特別賞を受賞。2013年に女優の趣里が主演を務めた「おとぎ話みたい」を制作、翌年劇場公開した。2016年公開の「溺れるナイフ」は60万人以上を動員し、若者を中心に人気を得る。2018年に女性監督15人のオムニバス作品「21世紀の女の子」を企画、プロデュースを発表。「ホットギミック––ガールミーツボーイ」は6月から全国ロードショー予定。乃木坂46らのミュージック・ビデオや、CM制作にも携わる。