「バイス」の原題は「Vice」。もちろん、この作品の主人公であるディック・チェイニー第46代アメリカ合衆国副大統領(Vice President)に由来しているが、「vice」を名詞として使う場合には、「悪徳」とか「不道徳」とか「邪悪」という意味となり、ダブルミーニングのタイトルとなっている。
登場人物は、ディック・チェイニーの他にも、ジョージ・W・ブッシュ第43代アメリカ合衆国大統領、そのブッシュ政権下の国防長官ドナルド・ラムズフェルド、国務長官コリン・パウエルと、当時の911同時多発テロからイラク戦争へと至る時期に政権の中枢を担った人物たちで、いずれもまだ存命だ。
日本で言えば、その時期は、ちょうど小泉政権の前半と重なり、「バイス」は、いわば小泉純一郎氏や田中真紀子氏を実名でそのまま登場させた作品と言ってもよいかもしれない。日本ではこのような実録作品はなかなか実現し得ないだろうが、「バイス」ではさらに、まだ歴史上の人物ともなっていない彼らを、痛烈に皮肉ったブラックコメディが展開されている。
米国史上初の政府存続計画を実行
物語の主人公は、タイトルでも示されている通り、あくまで「合衆国史上最強の副大統領」とも言われたディック・チェイニーだ。昨年公開された「LBJ」という映画でも描かれていたが、アメリカの副大統領は、実態的には「お飾り」とも言われ、何の権力もなく、大統領の死を待つのが仕事とも揶揄されている。
しかし、チェイニーは、ブッシュ(子)の副大統領候補に指名された当初から、その力を発揮、政権移行チームでも責任者となり、閣僚の人事にも関与した。また、2001年の911同時多発テロ事件直後には、ブッシュ大統領がフロリダ州にいたため、ホワイトハウスにいたチェイニーが即座に米史上初の「政府存続計画」を実行、地下にある大統領危機管理センターで「影の政府」を組織した。
その後に続くイラク戦争でも、開戦に対して主導的立場をとり、アメリカどころか、世界の歴史を動かした人物とも言われている。「バイス」では、そのチェイニーの個人史を遡り、1963年、彼がイェール大学を中退して、故郷のワイオミング州に戻ったときから描かれていく。
酒癖の悪いチェイニー(クリスチャン・ベール)は、飲酒運転で警察の世話になるが、彼を引き取りに来たのは、高校時代からの付き合いである恋人のリン(エイミー・アダムス)。のちに妻となり、全米人文科学基金の会長ともなる彼女は、成績優秀の才媛で、故郷で燻っていたチェイニーを叱咤激励して、立ち直らせる。
再び、故郷を出て、ワシントンD.C.で働き始めたチェイニーは、そこで彼の人生を決定づける人物、ドナルド・ラムズフェルド(スティーヴ・カレル)と出会う。ラムズフェルドはリチャード・ニクソン政権下で、大統領補佐官に就任、チェイニーも彼の部下として政権の中枢で自らの生きる道を見出し、権力の座を駆け上ることを目指すのだった。
その後、多少の紆余曲折はあったものの、チェイニーは、ジェラルド・フォード大統領のもとでは大統領首席補佐官、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)政権下では国防長官にまで就任する。しかし、同性愛者である次女メアリーの存在もあり、チェイニーは大統領への道を断念。政界を去って、石油会社のCEOとなる。