「花王の顔」というWEB CMをご存知だろうか。3月末から流されているこのCMには、白衣を着た「バイオIOS開発者」という3人の花王の研究者が登場し、驚きの予測が打ち明けられる。日々、私たちが当たり前に行う洗濯が、困難になるというのだ。
その理由は、洗浄剤の原料として使われる植物油脂にある。
まず、世界の総人口が2050年には2017年比で1.3倍になるとの予測がある。GDPが3.2倍となり、世界的に生活水準が急上昇するため、洗剤のユーザー数は爆発的に増える。しかし、洗剤の原材料である植物油脂の生産量はそれには追いつかず、現在のような品質・価格で生産・流通ができなくなる可能性がある、というのだ。
生活に大打撃を与える知られざる課題の解決に挑んだのが、CMに登場する3人である。
3人に会うため、特急「くろしお」に乗り、和歌山市郊外にある花王のマテリアルサイエンス研究所に向かった。港に直結する花王和歌山工場内に研究所はあり、実はこの和歌山という場所がキーワードの一つだと、あとになって気づかされるのである。
サステナブルな社会に蘇る界面活性剤「サステナブル社会に蘇る、古くて新しい界面活性剤と、僕は呼んでいます」
私たちを迎え入れてくれた主席研究員の坂井隆也は、少し照れ笑いを浮かべながらそう言う。今年1月、「花王史上最高の洗浄基剤」と発表した「バイオIOS」なる界面活性剤は坂井たちが開発したもので、50年ぶりと言われる世界的な発明である。
「小学校の理科の授業で習ったと思いますが、界面活性剤って、シャボン玉。つまり石鹸ですよ。化粧品やクリームが感触よく伸びるのは、油と水を界面活性剤がつないで混ざりやすくしているからです」
坂井が「サステナブル」と言うのは、最近のトレンドだからではない。1974年、界面活性剤に関して、ヨーロッパを中心に研究者やメーカーが集まり国際会議をスタートさせた。「サステナブル」の実現というのは、この国際会議では2000年代初頭からのテーマだ。なぜ洗剤と持続可能性が古くから課題だったのか。
「例えば、ヨーロッパのホテルで体を洗っていても、泡が立たないなと思ったことがある人はいると思います。石鹸が悪いわけではなく、水が硬水だからです」と、坂井は話す。
洗浄剤を水に溶けやすくするには、硬度が高い水の場合、温度を上げなければならない。洗濯をするのにお湯を使わなければならず、エネルギー効率が悪い。水に溶けやすく、少ない量で汚れを落とす高い性能をもち、河川に流れても環境に影響のないものにしなければならない。
かつて界面活性剤は、河川や地下水の汚染など環境問題を問われた歴史があった。しかし、植物性の原材料を使い、生分解性を極限まで確保し、水生生物への影響を最小化することで環境問題に向き合い、改善してきたのが界面活性剤の開発の歴史である。ところが、今度はその原料である植物が不足しようとしているのだ。坂井が続ける。
「世界で生活水準が向上して、市場が拡大し、花王も世界で事業を拡大していく。しかし、大きな世界を目指すには、可能な限り少ない量で最大の効果を得られる界面活性剤技術を作らなければならない。1〜2年でできるものではなく、研究開発には時間がかかります。私たちのグループは10年以上前に、その課題に取り組むことになったのです」
しかし、これが坂井の悩める日々の始まりだった。
「そんなはずはない!」否定されるほどのスペック2010年、バイオIOSの研究開発が始まった。
もちろん教科書はなく、成功の保障もない。界面活性剤のプロとしてアドバイスを与える立場の坂井もわからないことだらけだ。次第に周囲だけでなく、坂井自身が「こんな際立った特徴が見えない界面活性剤に可能性なんてあるのか」と懐疑的になっていったという。
「いちばん苦悩したのは、バイオIOSをこのままやめるのか、もう一回研究を生き返らすのかという選択をしなければならない時でした。どちらに進むにしても、何か納得のいく理由を考えなければならなくなり、どうしていいかわからず、悩みました」
2011年、この年に入社したばかりの新人研究員、堀寛が洗浄剤としてユニークな特徴を示す分子構造を探す研究を始めた。もちろん出口はまったく見えない。一方、実用化ができるような価値があるかどうか悩む坂井をよそに、多くの研究員はこう思っていた。
「ここでやめるわけにはいかないでしょ」
潮目が変わってきたのは、2015年だという。
マテリアルサイエンス研究所のメンバーがポテンシャルを探り続けた結果、一つの可能性を見出した。坂井が言う。
「これまでの洗剤の常識として、水に溶けやすくすると汚れを落とす性能が落ちて、性能を上げようとすると水に溶けなくなる、トレードオフでした。しかし、バイオIOSによってこれが両立できる可能性が見えてきて、『あ、これはすごいな』と思ったんです」
界面活性剤の教科書にはない原理ではある。だが、研究をスタートした時、会社から「教科書一冊分を書けるくらいの研究をしなさい」と、高いレベルのミッションを与えられていた。ここに近づきつつあったのだ。
「不可能の壁が崩れるかもしれない」。そう気がついた坂井はまずその性能を疑っては実験を重ねて、確信を得ては、「これか」とほくそ笑んだ。
バイオIOSの登場が画期的なのは、少量で汚れを落とす「高い界面活性」、低温・硬水でも溶ける「高い水溶性」、そしてサステナビリティを実現させる象徴として、これまで界面活性剤の原料としてほとんど使われてこなかった、固体部(パームヤシの実にある固体部分)のバイオマスを使うことだ。つまり、これまでの洗剤から原料という「土俵を変える」ことに成功したのだ。
高い洗浄力によって、洗濯の「時短」にもつながる。原料をアブラヤシの再生可能原料にしたことで、洗濯時のエネルギー効率だけでなく、製造時のエネルギー負荷を低減させることになる。
2016年、坂井が社内会議でバイオIOSのスペックを発表すると、こんな声が飛んだ。
「そんなはずない!」。
否定されるほど、革新的だったのだ。
教科書に書いてないことをやろうこのバイオIOSの大量生産に向けたスケールアップを担ったのが加工・プロセス開発研究所の藤岡徳だった。
「文字通り戦場でした」
藤岡はそう振り返る。バイオIOSの次の問題は、工場での生産である。「想定や計算通りに能力がでない」という事態に陥った。まったく新しい基剤であり、データや蓄積もない。期限が刻一刻と迫る中、チームは追い詰められていった。
藤岡が言う。
「一番苦労したのは昨年の工場での実機設備の試運転です。ここが一番修羅場で、生産数量を出さなければならないのに、能力を出せない。何度も失敗を重ねて、仮説と検証を繰り返し、もうダメだ、っていうギリギリのところで成功させた瞬間は、今でも目を閉じたら全部鮮明に思い浮かべられます。みんなで喜ぶ顔もです。だから、そのときの仲間は戦友です。戦友以外の言葉で表現できないですよ。その戦友づくりが僕にとってはこの会社で仕事をする上での大きなやりがいになりました」
坂井がこんな話をする。
「研究に行き詰まった時、誰彼となく、『研究って何だっけ』と、悩む人が出てきます。すると、必ず丸田芳郎さんの話をする人がいるんです。丸田さんの話をして、『原点に帰ろうよ』とね」
丸田芳郎は京都大学工学博士で、1971年に花王の社長に就任した。
「きちんと正しく分かっていることで戦えよ」が口癖で、基礎研究の重要性を説き続けた人物である。作家の城山三郎が、『梅は匂い 人はこころ』という小説で若き日の丸田を描いている。
坂井が入社したとき、丸田は会長で、「お客さまに本当に価値ある高品質なものをお届けするのがうちの使命ですよ」と社員に言い続けたという。経営者であり、科学者でもある丸田らしい経営哲学だった。
2011年に入社した前出の堀は、「川上から、末端の製品のラインまで持っている花王だからこそ、あらゆるものに対して責任を持てます」と話す。和歌山に工場がある理由は、港と直結するからだ。バイオIOSの原料となるこれまではほとんど使われてこなかったパームヤシの実にある固体部分も、貨物船で直接運ばれてくる。実は原料の開発から行う洗剤メーカーは世界的にもほとんどない。
原料から商品まで一気通貫で思考する。それが花王のものづくりへの思想であり、50年ぶりの発明を可能にしたといっても過言ではない。
坂井が最後にこう言う。
「教科書の知識を集めて製品を開発するのは、知の結集で研究の成果ではありません。教科書に書いてない、先のことをやるのが研究です。世の中の誰も知らない、やったことがないものを自分で見つけるのが、最大のカタルシスじゃないですか」
冒頭の世界総人口の増加と洗剤の原料不足の話を思い返してみよう。
2050年、「洗剤って、本当は高くて買えなくなっていたんだよね」と言われるようになったとしたら、和歌山でのこの10年こそ、未来を変えたターニングポイントといえるのかもしれない。