『戦メリ』助監督が惹かれ続ける、宮沢賢治の「21世紀的良心」

ロジャー・パルバース氏


食料の安全にうるさくこだわる日本人は、自分が消費する動物の運命については気づいてはいないと思う。実に多くの動物たちが、薬漬けにされ、しばしば無作法な扱いとぎゅうぎゅう詰めの環境で苦しんでいることを知っているだろうか。仏教の教えによればわれわれ人間と同じ魂を持っているはずの動物に対する尊敬は、どこに行ったのだろう。

日本では1868年、明治時代の幕開けまで、大規模な動物飼育は行われていなかった。それまでの日本人は基本的に農耕生活を営んでおり、農場の動物たちとは大した関係を持たなかった。仏教の教えは日本人を、稀にイノシシや鹿といった野生の動物を食す以外は動物の肉を食べることから遠ざけていた(「ぼたん」と言う婉曲表現がイノシシを指すのは、肉がピンクで、薄く切ったその肉のあしらいが花のぼたんに似ているからだろう)。

日本人が動物の肉を食べ、育て、屠殺するようになったのは、西洋からその文化が輸入されてからだ。

西洋の伝統では、魂を持っているのはただ人間だけということになっている。われわれ人は「万有の主 (the lords of all creation) 」であり、「世界の主人(the masters of the Earth)」なのだ。地球上の動物は、人間に仕える存在であり、人よりも「低い」存在だ。人は動物を、自分の生存と満足のために利用する。

しかし、動物にも苦しみはある。ペットを飼っている人ならみな知っているように。動物も、人と同じぐらいに苦しむのだ。
 
日本の伝統は、過去に十分さかのぼれば、西洋のそれとは異なる。仏教の教えは、地球上のすべての生き物に、等しく、情け深く接するようにと教えている。精進料理は世界でも古いベジタリアン料理の一つであり、明らかにインドや中国、韓国から伝わった仏教の慣習の影響を受けている。

それにしても、もともとは動物を卑下する伝統を持つ西洋の、動物の福祉(welfare)について真剣に考える人たちやベジタリアンたちの数は、日本にいるそういう人たちの数よりもずっと多い。優しさと共感を持って動物と接しようという動きの先頭にいるのが、日本でなく西洋の人たちであるという事実は、ある種のパラドックスだ。

21世紀の良心を持って19世紀に生まれた男

しかし、100年以上前の日本に、動物の福祉について雄弁に綴ったある男がいた。彼は21歳で菜食主義者になった。他の人たちに対しても、動物に、豚もクマも、醜い鳥たちにさえ、やさしく関わってほしいと促した。彼は人々に、ただ楽しみのために動物を殺すのをやめてほしいと願った。

慰霊祭や感謝祭のような儀式は、動物たちにはちっとも役に立たない。そういうものは人が自分自身の良心をなだめるための行為だ。そういった儀式は、「自分たちが生き物を大切にしている」ような錯覚を人間に抱かせるだけだ。現実には、われわれは自分たちを、動物に関して思いやりのある生き物だとは決して言えない。

この男は時代から100年進んでいたのだ。彼は人間を、森羅万象のたった一つの要素に過ぎないと思っていた。彼はこの惑星における人間の運命が、他の動物たちのそれとなんら変わらないことを知っていた。他の動物たちが生きて栄え、幸せであるならば、われわれも生きて栄え、幸せである。彼らが苦しみ、死に絶えるなら、われわれもまた苦しみ、死に絶えるだろうということを。

皮肉なのは、人間が1人残らず「種」として死ぬ絶えるときでさえ、他の動物たちは生き残るだろう、ということだ。逆に、もし他の動物たち、とりわけハチやアリやミミズといった無脊椎動物が死に絶えるなら、人類はこの世界に長くは生きられないのだ(チャールズ・ダーウィンの最後の著作はミミズがテーマで、人類の生存にとってはミミズがどんなに重要かを説いたものだった)。
次ページ > 「そいういうものにわたしはなりたい」

文=ロジャー・パルバース 構成=石井節子

タグ:

連載

世界の鼓動を聞く

ForbesBrandVoice

人気記事