おしどり夫婦の家で学んだ、世界一贅沢な貝のパスタ

ムール貝とアサリのパスタ


「さてと、リーッツ! 私は、こう呼ぶわよ。いいわね?」

クラウディアの、少女のように可愛らしい外見とは裏腹に、ドスの効いた巻き舌の「リーッツ」の声に思わずクスッと笑ってしまう。硬直していた自分の体がみるみるうちに溶けていくこの家の温もりに、私はようやく気づく。



クラウディアの家での居候生活はこんなふうに始まった。いや、居候生活などという呑気なものではなく、体育会系料理生活というべきだろうか。

「マリオ〜、畑に行ったらトマトをもいで来てくれない? いちばん出来のいいやつ。あっ、あとパセリもよろしくね」

「了解、アモーレ」

毎朝、畑に出かけていくマリオにキスをしながら、クラウディアは今日の料理に必要な食材の調達を甘い声で言いつけると、「さあ、リッツ、エプロンつけて! まずはそのナスを切ってちょうだい!」とスイッチが入り、まだ朝食のエスプレッソも飲み終わっていないうちに包丁を握らされる。


クラウディアの畑で収穫した野菜

ネリーナに連れて来られたあの嵐の晩が嘘のように、穏やかな晩秋の晴天が続いているというのに、結局、夜まで一歩も外に出ず、料理をしっぱなしなんてこともあった。それでも、この素晴らしい地中海の眺めをキッチンから見ながら料理をできる贅沢は、たまらない。

イタリア中のイタリア人が羨む場所

海沿いの街、チェチナから10キロほど丘を上ったところにあるリパルベッラというこの村は、トスカーナ出身の人に村名を言ってもまず知らない。中心地を端から端まで歩いてもたったの数10メートル。お店も、食料品から日用品までなんでも売っている「よろずや」が数件。カフェも1軒。パン屋も1軒。当然ホテルなどもなく、観光客もいない。

最初は道を歩いているだけで、村の人からは珍獣でも見るかのようなまなざしで見つめられたけど、3日目からは「ああ、知ってるぞ。マリオの家に居候してる日本人だろ」と見覚えのない人からも言われたりして、早くも有名人になってしまった。

ティレニア海に浮かぶエルバ島まで一望でき、背後にはなだらかな丘陵を背負う。トスカーナならではの肉やチーズはもちろん、新鮮な魚介類も食卓にのぼる、イタリア中のイタリア人たちが羨むような場所だ。

10歳近く年の差のあるマリオとクラウディアの夫婦。彼らの出会いはクラウディアがまだ16歳の頃、兄がたまたま家に連れて来た友達に、彼女が一目で恋に落ちた。それが、当時サルデーニャから出稼ぎに来ていたマリオだった。

その後、クラウディアが18歳になるのを待って結婚。すぐに長女と、続いて長男を授かるも、マリオがゼネコンに勤めていた関係で、幼子2人を連れて一家はカメルーンへ。アフリカや中近東など途上国での生活を15年続けたあと、帰国後はマリオが早期退職して、クラウディアの故郷、ここトスカーナの村に居を定める。

以来、100頭を超える羊を抱えて酪農業を営んでいたものの、数年前にマリオが体を壊してからは家畜を手放し、今は、地元の若い牧場経営者に頼まれて牧場の管理を取り仕切りながら、自分たちのオリーヴ畑と野菜畑を持ち、他はマリオの生き甲斐でもある「狩り」で生計を立てている。

2人の子供は成長し、長女は仕事で海外を転々と、長男は街で運送会社を経営していて、すでに夫婦2人暮らしということもあり、「俺たちの娘が帰って来た!」とばかりに、私に世話を焼いてくれた。
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文=山中律子

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