肉を提供しない時期もあるというが、私が訪れた冬は網どりの天然の真鴨が提供されていた。専用の熟成庫で3週間エイジングし、表面に白味噌を抽出した水を塗ってから備長炭で焼き上げる。しっとりとした鴨に白味噌のほのかな甘みと旨みがあう。鴨とベリーは定番の組み合わせだが、ジュースペアリングは、「ナツハゼ」という日本のブルーベリーの一種と甘草のジュース。甘草のほのかな苦味が、鴨の肉の旨みを引き立てる。
最後の〆は土鍋で炊いたご飯で、澄ましバターをかけた上に、ブナの実が乗っていた。もちもちした食感のご飯に、噛むと広がるブナの実の香ばしさが楽しい。
ブナの実を使ったご飯
「ヘーゼルナッツのような味だな」と思わず口に出して気づいた。いつの間にか私たち日本人は、はるか外国から来た木の実を、すぐそばの森にある木の実よりも身近に感じるようになってしまっていたのか。「日本人が忘れてきた日本の味の再発見」そんなことを思いながら頂いた。
極秘でなくてはならなかった「深い理由」
さて、冒頭の話に戻る。このプロジェクトは、秘密裏で進められ、nomaとのパートナーシップも、オープン1カ月前まで、明かされることはなかった。なぜか?
「nomaの名前を出せば、厨房機器などの価格交渉もうまくいったかもしれません」とプロジェクトの責任者である郡司は明かす。しかし、それは決してしないとこだわった。社内にも公表せずに、わずか10名の特命スタッフのみで、全てを極秘で執り行った。
それは、「1年前からオープンが分かっているよりも、人々に最大限の驚きを与えられる」という計算でもあり、エンターテイメント会社としての矜持でもあった。
「僕ら編集者の仕事は、作家というクリエイターの才能を、できる限り活かせる環境を作り、その能力を最大限発揮してもらうことなのです。映画もアニメのプロデュースも同じです。そして、今、僕らはフレベルという優れたクリエイターを中心に、レストランという新しいエンターテイメントの世界に挑戦しています。この世界は、将来的にはもっと多様化していくでしょう。そうなった時に、次の世代が、今の僕らが思いもつかないような、新しいエンターテイメントの開拓に、怯まずに挑戦していってほしい。そんな文化の継承のためにも、INUAというのは大切なプロジェクトなのです」
「クリエイターを生かす編集者の仕事」それが、全てにおいて異色の、このプロジェクトの根本にあった精神だったのだ。
だからこそ、フレベルが気に入ったというこのビルを改装し、素晴らしい厨房を作り、わずかなディテール、例えば、木製のスプーンの完成度を上げるために、7回もの試作をすることすら厭わなかった。全ては、訪れた客を満足させるパフォーマンスを発揮するための、最上級の「お膳立て」というわけだ。
帆立貝のムースリーヌと、「7回試作を繰り返した」漆塗りのスプーン
そして、お膳立てされた舞台で、クリエイターであるフレベルが描く世界を、訪れた客は目の前のオープンキッチンで楽しみ、各々の心のスクリーンに投影していく。約3時間、フルコースの「エンターテイメント」を体験してINUAを後にした時に、私の心に浮かんだのは、「森羅万象を内包する森」のイメージだった。
この記事を読み終わったら、このページを閉じて、ぜひ「INUA」で検索してみてほしい。大勢の人が、様々な言葉で、このレストランを評しているのが見つかるだろう。食べた人の価値観や視点を受け止める日本の豊穣さそのものを体現する、それが、KADOKAWAが紡ぐINUAという物語の「メッセージ」なのではなかろうか。
そして、もしINUAを訪れたら、ぜひ自分の言葉でこのレストランを表現してほしい。それが、レストランという形の新しいメディアの未来を、作っていくかもしれないのだから。