震災ドキュメントを撮り続けて感じた、被災地の今と地方の再生




そしてカメラを回した

当時78歳だった母は、50年連れ添った父を事故で失って100日もしないうちに、震災に見舞われた。夫婦の歴史が染みついた家は半壊し、結局取り壊すこととなり、明らかに生きる希望を失っていた。

めったに弱音を吐かない母が、ぽつりと語る。

「ある意味、戦争よりひどいよ…戦争は憎むべき相手がいたけど、天のしたこと憎みようがないじゃない…」

そして、その日の母の日記には、こう綴られていた。

 3月11日…あの時猛り狂い 咆哮し 大地を襲った海は 本当にこの海だったのか
 今は静かに潮騒の中に 白い小さな波頭が見えるだけ
 悠々と流れていく雲よ お前は何を見ていたの
 小さな蟻のように 人々がもがき苦しむさまを
 黙って見ていたの?

誰に見せるためでもなく、スーパーのチラシの裏に綴られたその言葉に、僕はハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。

「我慢強い」と思われている東北人…テレビのインタビューでは決して語られない「被災者の本音」が、そこにある気がした。

そして思った。今まで自分は、多くの災害の現場を取材しながらも、「より被害が大きいほう」にばかりにカメラを向けてきたのではないか?

通り過ぎてしまう、一見「被害が小さな家」それぞれに、多くの苦悩や憤りがあることを、見過ごしてはこなかっただろうか?

弱気になった母を、このままにはしておけないという息子としての気持ちもあり、僕はカメラを回すことを決めた。被害が小さく見える一軒一軒に、それぞれの苦悩があることを伝えるために…。



番組になるかどうかはわからなかったが「家族の記録」として、自分でカメラを回し始めた。息子と母親という距離感のためか、番組になるとは思わず油断していたのか、母はぽつりぽつりと本音を語った。

「命助かって良かったねとかよく言われるけど…こんな年になって生き残って、本当に良かったのか…家もこんな風になって、これからどうすれば良いのか…いっそ一気に逝ったほうが楽だったんじゃないか、って思うときもあるよ…」

その言葉を、「そんなこと言うなよ」とたしなめつつも、かける言葉が見つからなかった。

我が家だけではない。この東北が…福島が…本当に立ち上がる日は来るのだろうか?こんなにも壊滅的な被害を受けた故郷に、活気が戻る日は来るのだろうか?畑に転がった漁船を見ながら、無力感にさいなまれていた。

しかし、自然とは逞しいものである。それから3か月…瓦礫に埋まった畑で、2本だけ、菜の花のような黄色い綺麗な花が咲いていた。

それを見るなり母は言った。

「これお父さんだよ!お父さんが最後にまいた大根の根が残ってたんだよ!きっと」

あるいは大根ではなく、カブだったかもしれない。

どちらにしろ、ひび割れた大地から逞しく伸びて風に揺れる2本の花を見て、母は亡き父のメッセージを感じたのだという。

そして雲を見上げながら、こう呟いた。

「お母さんは生きなきゃ駄目なんだね。生きて家を再建しなきゃ駄目なんだね!」

久し振りに見た母の元気な姿をカメラで納めながら、僕は思わず涙が溢れそうになった。まだまだ、半人前だ。
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文=武澤忠

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