排外主義とテロの被害者が最後に示す「倫理的」決断

カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞した、主演のダイアン・クルーガー(Photo by Pascal Le Segretain/Getty Images)


ビジュアル的によりわかりやすくするためであろう、メラー夫妻も強面の弁護士も、見るからにゲルマン民族という印象を与える風貌の俳優陣。一方、カティの弁護士ダニーロを演じるデニス・モシットは、イタリア人とトルコ人の血を引いている点など、絶妙なキャスティングだ。ちなみにアキン監督はトルコ系ドイツ人だ。

九分九厘「有罪」と思われた判決は…

重要な証言者が二人登場する。一人は容疑者メラーの父。いかにも実直そうな中産階級の老紳士が、息子はヒトラー崇拝者だと証言する下りは衝撃的だ。閉廷後、話しかけてきたカティに彼が懺悔の言葉を口にする場面には、ドイツのネオナチの背景が垣間見える。

もう一人はギリシャのホテル経営者で、メラー夫妻のアリバイを証言。しかし弁護士ダニーロは、彼がギリシャの極右政党所属であることを証明、メラー夫妻と繋がっていたと看破する。

その他、爆弾に関する状況証拠も出揃って、九分九厘「有罪」と思われた判決はしかし思いがけない結果となり、カティを再び絶望のどん底に叩き込む。

このドラマは三部構成となっており、第一部は「ヒロインの受難」、第二部は「公の裁き」、そして第三部が「ヒロインの裁き」を描いている。

第三部に入ってからのカティのすべての振る舞いと表情は、「ある日突然、その国に巣食う排外主義者の手で家族を奪われ、公正な裁きを求めて闘ったのに無情にも叶えられなかった時、あなたなら一体どうするか?」という問いを見る者に突きつけてくる。

どちらの親も親身になってはくれない。唯一ずっと心配してくれていた親友のギルビットは、出産後に赤ん坊を連れてカティを訪問。悪気はないのだけど、息子を失ったばかりのカティにはやはり残酷だ。

何度か挿入される、家族三人の思い出のビデオ画面に満ちた幸福な日々は、それを失った現在との目眩のするような落差を示す。生きていることそのものが苦痛となって襲いかかってくる毎日なのに、犯人たちは何も咎められず、公費で休暇を楽しんでいるのだ。

このリアリティは、滅法重い

カティは単独でギリシャ人のホテルを突き止め、ついに海岸に停められたメラー夫妻のキャンピングカーを発見する。幸か不幸か、カティは裁判を通じて爆弾の作り方を知り、また幸か不幸か、息子のラジコンカーを修理できるほどメカに強かった。

一回目のトライを急遽やめたのは、キャンピングカーの窓際に小鳥がいたからだ。おそらく彼女には小鳥が、偶然そこに居合わせただけで命を失った息子と重なったのだろう。普通の映画なら、ヒロインはここで自らの復讐行為が何ももたらさないと気づき、上告してあくまで法廷で闘い続ける道を選ぶことになる。

しかし、カティはそうしなかった。司法は本当に正しい判断を下すのか。ネオナチは裁きを受けるのか。夫や息子を殺した差別や排外主義はなくなるのか。そしていつか自分は心安らかな生活に戻れるのか……。そのどの問いにも、彼女はイエスと言えなかったのだ。イエスと言えない。希望は持てない。このリアリティは、滅法重い。

ショックでずっと止まっていた生理が始まり、自らの生そのものと対面した時、カティは逆に死を見つめる。それは裁判の前、死へと向かった流血のバスルームから生に向って這い上がってきたシーンと響き合う。

邦題の「二度決断する」には、この生死をめぐる二度の決断と、爆破をめぐる二度の決断が掛けられている。いずれも一度目は何らかの外部要因によって変更を余儀なくされたものだったが、二度目は違っていた。そこに、何も信じられなくなった世界で被害者となった女が、かろうじて示すことのできたギリギリの主体性と倫理を、私たちは見るべきだろう。

連載 : シネマの女は最後に微笑む
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文=大野左紀子

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