昭和5年、師走の大阪であった。ただでも慌ただしい難波の街は、一人の噺家の噂で汗をかくような大騒ぎになっていた。話題の主は初代桂春団治、関西一円の演芸場で圧倒的な人気を誇った落語家である。所属する吉本興業が厳禁するラジオ出演を強行し、幹部一同を激怒させていたのだ。
ラジオ放送が開始されて5年ほどで、全国の受信機数は100万台に迫っていた。当時の吉本興業は、演芸場の入場料を主要収入とする事業モデルだ。「ラジオでの演芸をタダで聞かせたら小屋に客が来んようになる」と危機感を募らせ、所属芸人のラジオ出演をご法度にしていた。そんななか、春団治はヘラヘラと禁を破った。憤怒と焦燥感に捉われた吉本幹部を待っていたのは、しかし、意外な光景だった。ナマの春団治が寄席に上がると聞きつけた客が、雲霞のように「南地花月」に押し寄せたのである。
吉本興業は、意を決してラジオ活用に舵を切った。寄席をラジオ中継する、ラジオの聴衆が演芸場に行く、芸人をナマで見た客は毎日ラジオをつける、ラジオの聴取者が増え、スポンサー収入も増える、百貨店でイベントを打つ、人気が人気を呼び興行収入が増える、といったメディアミクス戦略だ。
春団治が吉本興業専属になった頃、米国ではシカゴ学派の祖のひとりとなるフランク・ナイトが代表的著作『Risk,Uncertainty and Profit』(1921年)を公にしていた。彼は経済活動で直面する予見の難しい事態には大きく2 種類あるとした。
一つはサイコロの特定の数字が出る確率や平均寿命のように統計的処理で対応できるもので、「リスク」と呼ぶ。相当程度予測可能であるし、その気になれば誰でも利用できる手法が存在する。
これに対してもう一つは、先例がなく数学的な処理で予測することが困難なもの、当事者が主観的に決断するほかない事態であり、「不確実性」と呼ぶ。不確実性に対する主観的決定は決定者によって異なり、失敗か成功かはやってみないとわからない。
リスク対応法は一定の法則の適用や確率論的処理であり、誰が行っても答えは大差ない。したがって市場経済の下では大きな利潤を生み出すことはない。
半面、こうした法則が適用できない不確実性への判断に当たって、最終的な決め手になるのは経営者個人の「究極的ドタ勘」だ。当たれば経営者は賃金とは別の大きな利潤を得る。利潤とは予測可能なリスクに対する対価(賃金)ではなく、予測不能な不確実性に対する対価(報酬)なのだ。企業家精神とは後者を果敢に取る態度をいう。
ナイトの所論は春団治のラジオ出演事件にも適用できる。草創期のラジオの将来性は不透明で、むしろラジオ番組は演芸場の収入を阻害するもの、と受け取るのが常識的判断だった。演芸場事業と180度異なる未知のラジオ番組に乗り出すという経営判断は、「不確実性への挑戦」だった。この挑戦が会社を発展させたのである。
ナイトの慧眼を雄弁に物語る最近の例がコダックと富士フイルムだ。写真フィルムの世界的巨人だったコダックは、早々とデジタルカメラを開発し未来のデジタル化を予見していたにもかかわらず、従来事業に固執した。リスクは取っても不確実性の領域には踏み込めなかったのだ。反対に、富士フイルムは果敢に不確実性に活路を見出し、新規分野への投資と既存事業のリストラを進め、別業態に生まれ変わった。
これらの結果、コダックは破綻し、富士フイルムは高い成長を続けた。
日本の成長は、迅速な意思決定と思い切った改革にかかっているといわれる。ナイト理論を援用すればリスクを取るのは日常業務、成長を推進するのは不確実性への断固としたチャレンジなのである。