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2019.03.04

ディズニーやNASAも認めた、型破りな「京都の試作屋」が世界に求められる理由

ヒルトップアメリカ現地法人CEO 山本勇輝


火事が変えた息子の未来

ヒルトップは、山本の祖父が1961年に創業した山本精工所が前身だ。祖父は、長男が幼少時に投薬の副作用で全聾となったことで、その将来を憂いて家業を起こした。現在はその長男が本社社長を、次男であり山本の父でもある山本昌作が副社長を務める。

「もともと父は僕を跡継ぎにしようと思っていなかったし、僕自身も入社する気はまったくなかった。親子揃って、製造業が好きじゃないんです」と山本は笑う。この「嫌い」という感情が、変革への強力な動機となる。

父・昌作はやむなく継いだ下請け稼業に辟易し、「楽しくなければ仕事じゃない」と、売り上げの8割を占めていた自動車部品の仕事を辞め、知的作業の多い単品モノ主体に切り替えた。油まみれの工場から、“白衣を着て働く工場”を目指したのだ。

前述のヒルトップ・システムの開発は試行錯誤した。道のりは多額の修理費もかかるなど長く険しいものだったが、原型が完成すると、軌道に乗り始めた。その結果、業績が伸び、社員も増え、ヒルトップ・システム自体も業界の注目を浴びるようになった。

ところが、昌作の思い描く「社員が誇りに思えるような夢の工場」に一歩近づいた矢先、悪夢のような出来事が起きる。2003年12月22日、工場で火災が発生。昌作は消火しようとして、瀕死の大やけどを負った。当時大学生だった山本は、京都の北山で連絡を受け、タクシーで病院に駆けつけた。

「あまりのショックで当時の記憶がないんですが、一つだけ覚えているのは……変な話で恐縮ですけど、乗ったのがヤサカタクシーの四つ葉だったんですよね」

三つ葉がシンボルマークの京都ヤサカタクシーは、1300台のうち4台だけが四つ葉マークで、「乗れたら奇跡」「幸せを運ぶ」と巷では有名だ。山本は「父は助かるかもしれない」と思った。実際はといえば、昌作は1カ月間、意識不明の重体に。その間の3度の臨死体験から「余命は3年」と確信し、3年で会社を再建することを誓った。具体的にはヒルトップ・システムのさらなる進化、優秀な人材の確保、そして新社屋の竣工だ。

 
07年12月に生まれ変わった京都本社は、近未来的な建物だ。大きな窓ガラスには青い空と雲が映り込み、解放的な印象

辛いリハビリを乗り越え、死に物狂いで夢を追う父の姿は、山本の未来も変えた。大学卒業後、いったんはリクルーティング会社に入社するも、人事部で培ったマネジメント力を手土産に、06年9月、ヒルトップに転職する。翌年12月には新社屋が完成。当時36名だった社員数は現在130名を超えた。


京都本社のオフィス内には、胸下の高さの間仕切りが8角形に並ぶ。コミュニケーションがしやすいように配置している

もう一つ、山本が製造業を継ぐことにしたきっかけがある。「僕が大学生の就職活動中に、普段は仕事の話をしない父が夕食時に話したことがずっと心に残っているんです」。

それは、部品加工会社が、一つにつき数円で取り引きしている自らの部品の“本当の価値”を知らないという話だった。例えば携帯電話の部品を製造する会社が、完成品がいくらで売られているのか、自分たちの仕事の妥当性やものづくりの価値がどれほどなのかを知らなすぎると。「父のそんな嘆きに、不思議とすごく共感したんですよね。あの話は意外と大きかったです」。
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文=堀香織、督あかり 写真=アーウィン・ウォン

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