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2019.02.27

富豪御曹司が「高級ワイン版ウーバー」立ち上げ ケープタウンは起業家の楽園か?

ニコロ・ストルティリョーネ・プデル。2015年、あらゆる生産者、農場、ワイナリーと最終消費者とをつなぐプラットフォーム「Port2Port」を立ち上げた。

しばしば、挑戦する者は報われる。

ニコロ・ストルティリョーネ・プデルのケースにも言えるだろう。チャンスが見えないミラノでの生活に見切りをつけ、南アフリカへと冒険の舵を切り、そこで成功をつかむことになったのだ。

「最初は、南アフリカというより、とにかくどこでもいい、海外に、と思っていたんです。起業家として活動をするにあたって自由度がとても高くて、自分の求める人生を実現できるような環境で、生活したかったんです」という。

いくつかの事業で幸運をつかんだのち、「Port2Port」を立ち上げる。これは高級ワインのためのウーバーともいえるもので、すでにアフリカ市場を席巻し、現在はヨーロッパ、さらには世界への上陸準備中だ。

手荷物ひとつでケープタウンに

南アフリカ、ケープタウン市にあるサイロホテルのグラナリーカフェでニコロと会うことになった。アフリカ専門の旅行会社「ロアー・アフリカ社」創業者、デボラ・カルメイヤーの仲介で叶ったインタビューである。

──まずは生い立ちについて教えてください。

1984年にミラノに生まれました。ミラノのドイツ系の学校に通い、14歳で、ドイツ、オーストリア、スイスの国境にあるボーデン湖畔の寄宿学校に入学し、6年間通ってドイツ語で高校を修了しました。

家系的にも実業家が多く、父は、20世代ほど続く老舗テキスタイルブランド、リネンファブリック特化の「C&Cミラノ」を経営しています。父の会社はミラノ、ニューヨーク、パリ、ロンドン、ミュンヘンなどにショールームがあります。

──その後は?

タイミングとしては2008年だったんですが、ミラノの街には停滞ムードが漂っていました。ミラノEXPOに向けての準備は進められていましたが、遠い未来のことのようで、実感もありません。

逆に今のミラノには活気がありますよね。最近滞在したのですが、ここ10年で初めて、今ならまたここに住むのもいいかなと思いました。でも、当時は陰うつとしてくすんでいて、活力を失くしているような感じがありました。

──南アフリカ行きはどうやって決めたんですか。

24歳で、デジタル技術をやりたいとはいえ、具体的には何をしたらいいかわからず、迷走しました。そんな時、母がケープタウンに旅行したんです。家族ぐるみで付き合いのある友人が現地にいて。それで、滞在中の母と、住んで働いてみたい都市について話していたんです。いい経験になりそうで、仕事のチャンスに恵まれていそうな、住みやすい気候があって文化的にもおもしろい場所はどこかなあ、と。

それで、「たとえば、シドニーとかサンフランシスコ、モントリオールとかね」と言ってみたら、母に「ケープタウンもいいわよ、選択肢に入れたら」とアドバイスされたんです。

あの時期、ケープタウンを取り巻くエネルギーにはすごいものがありました。「世界デザイン首都 (WDC) (「産業デザイン社会国際会議」が2年に一度、デザインの分野で功績のあった世界の都市を選出)」に選ばれたり、2010 FIFAワールドカップがあったりで、とにかく南アフリカの経済は右肩上がりだったんです。

母はこの時、後にぼくの人生で重要な存在になる、アルドという人物の連絡先を教えてくれました。彼もミラノ出身で、ケープタウンのキャンプス湾岸に「シー・ファイブ・ブティック・ホテル」というホテルを建設中だったのですが、マネージャーが辞めて、代わりの人材を探しているところでした。

アルドほか、共同経営者たちとの3回の面接を経て、ぼくが採用されることになりました。スイートだけ、7部屋の小さなホテルを任されたんです。きっと、熱意だけは伝わったんでしょうね! ケープタウンは初めてでしたけれど、この仕事がもしもうまくいかなくてもイタリアにすぐ戻るつもりはなくて、その後も海外で職業経験を積もうと思っていたので、ミラノのアパートはすぐに賃貸に回しました。

採用通知後、4週間で全部整理して、2009年4月26日、手荷物ひとつでケープタウンに来たんです。
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翻訳=大村紘代 編集=石井節子 写真=Forbes Italia提供

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