危機意識は薄れても、危機管理は続く──2017年まで全頭検査が続いていたBSE

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私はふだんノンフィクションライターとして「人物」を描くことをライフワークとしている。このコラム連載では、専門の獣医学を生かしながら、「人と動物の関わり」などもテーマに、ちょっと立ち止まって考えてみたいことを取り上げていくので、お付き合い願いたい。

危機管理、リスクマネジメントという概念が、ビジネスのみならず、社会生活全般にも浸透してきたと思う。

こういう言葉が使われると、一見して公的機関や、社会に何らかのサービスを提供する企業、団体などに課された責任のように感じられる節がある。

果たしてそうだろうか。危機管理とは、日常生活の意外な場面で出くわすこともある。

こんなシチュエーションから考えてみよう。スーパーで牛肉を購入する場面を想像してほしい。

ずらりと並んだ商品を手に取ったとき、注目するポイントはどこだろうか。

まず、値段。産地や色、さしの入り方などをざっと見たあと、最後に消費期限を確認してカゴヘ、といったところだろうか。

しかしよく見ると、ほとんどの人が気にしない表示がある。「個体識別番号」とか、「ロット」なる表示だ。10桁の番号からなるこの表示は、その名の通り、それがどの牛の肉なのかを識別するものだ。

牛の識別など、肉を買う時に関係がない情報じゃないか、と思われるかもしれない。だがこの表示をたどると、食卓で供される牛の「一生」までもが見えてくる、と聞けばどうだろう。

その牛がいつどこの農家で生まれたのか、母牛から離され、農家を移動した記録や、いつ、どのと場で肉になったのかなど。「牛の個体識別情報検索サービス」にアクセスし、10桁の番号を入力するだけで、手にした肉の由来を誰でも簡単に知ることができる。

検索結果は、一頭の牛がたどった歴史といっていい。単に食べ物でしかなかった肉から、それが生き物であったことを思い起こさせてもくれる。

だがこの表示はもちろん、そういった感傷に浸るための情報ではない。「危機管理」の視点から始まった表示なのだ。

きっかけは2001年、国内で初めて牛に感染が確認されたBSE(牛海綿状脳症)。この病気が、人にも感染する人獣共通感染症であったことから、緊急対策として個体識別が制度化された。

肉の由来となった個体がはっきりしていれば、健康な牛肉を食べているという消費者の安心と信頼を得ることができる。万が一、感染牛が出たときも、出所をたどって感染の広がりを食い止める対策を、早期に講じることも可能だ。

BSEは発生当時、食への安全意識を根底から覆す、衝撃的なニュースだった。スーパーや量販店に並んだ食品に、人の経験がまだ浅い未知のリスクが介入する恐れがあることに、漫然とした不安を覚えた記憶のある人も多いだろう。

安全であることを当然と考えていた一消費者にとって、センセーショナルな出来事だったのだ。

ところが同時に、この不安が他人事になるのも早かった。

今思うと、この時に感じた恐れや不安は、解消されたというよりも、徐々に忘れていったというほうがしっくりする。原因が分かり、国、そして専門家が対応を始める。それだけで無条件に安心を覚える体質が、自分にもあるように思う。今や、肉を手に取ったとき、感染症のリスクを意識する機会はほとんどなくなっている。

しかし、日本のBSEリスクが「無視できる」レベルにあると国際的に認められたのは、2013年。意外と最近のことだ。
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文=西岡真由美

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