廃墟の中からの復活
サービスナウの華々しい躍進の始まりは、かつて40億ドル以上の値をつけたことのあるソフトウェア管理企業ペレグリン・システムズ社の廃墟の中だった。ラディはCTOとして13年以上にわたって同社を引っぱったが、後に明らかになったところによると、成長はもっと浅はかなところから生み出されていた。
ペレグリンはいくつかの詐欺的な手法を使って、売上高と株価を2年間膨らませていたのだ。02年、突如として破産を申告し、CEOを含む最高経営幹部数人が逮捕された。ラディはこの事件で告発されなかったが、3500万ドルの出資金は一夜にして消えた。
「仕事が心底嫌いでした」。時が流れ、成功を手にした後の立場からラディは言う。「金を失ったことは本当に、起こりえた最良のことでした」。ラディは落ち込む代わりに決意した。自分が嫌っていたもの─普通の会社員が扱うにはあまりに難しいIT部門─に取り組むことを。そして失った金を取り戻し、それ以上を手にすることを。
資産が蒸発してすぐに、ラディはサンディエゴの自宅にこもって製品開発を始めた。それが後にサービスナウとなる。
ラディはサービスナウを(テックの基準では)高齢の50歳で設立した。いや、正確には49歳と346日だ。誕生日の2週間前に立ち上げた。「待てなかった」と彼は言う。「なんとなく、50歳で会社をつくるのは私には不可能な気がしたんです」。しかし、ラディの物語はこの考えが間違いだったことを証明している。シリコンバレーでは軽視されがちな「経験」がイノベーションの重要な源となった。
こうした「為せば成る」式の楽観主義はラストベルトの田舎町、インディアナ州ニューキャッスルで育まれた。彼の父親は会計士で、母親はカトリック学校の教師だった。若かりしラディは、本人いわく平凡な学生だったが、機械に夢中で、手にするものすべてを分解した。
17歳のとき、水回りの製品メーカー、アメリカン・スタンダードで雑用の仕事をしていて、オフィスに導入されたHP社製のコンピュータを目にし、触らせてほしいとせがんだ。プログラミングの入門書の助けを借りてラディは10日後、プログラマーとして雇われた。
ソフトウェアが人々の生活を良くする力を持っていると初めて気づいたのは、そのすぐ後のことだった。彼が注文入力のプログラムを作ると、事務員が同じ内容の注文フォームを一日中タイプし続けなくてよくなった。「これ以上の経験はありませんよ」と彼は当時を思い出して言う。「人ができると考えもしなかったことを可能にするんですから」。
インディアナ大学をドロップアウトすると(彼は授業に出ずに、ほとんどの時間をプログラミングに費やした)、シリコンバレーのAmdahl Corpに向かった。初期のメインフレーム・コンピュータ市場でIBMと競った会社だ。
ペレグリンが崩壊に向かっていたときでさえ、ラディは革新的なアイデアを、30年間のプログラミング経験から生み出していた。サービスナウという社名からもわかるように、彼の提供していたオフィスサービスはインターネット経由のサブスクリプション方式で、簡単にアップデートすることができた。
03年当時、平均的なオフィスワーカー向けにデザインされたユーザーフレンドリーなインターフェイスを目指したラディは、「サービスとしてのソフトウェア(SaaS)」の先駆者であった。ラディの弟、ロブが05年に一人目の営業社員として入社し、彼らは製品を市場に送り込んだ。
しかし、市場の反応は冷たかった。
「ワークフローを作るための、ほんとうに素晴らしいシンプルなプラットフォームだったから、営業に行くたびに『これを使えば、いまやっている業務がなんでもできますよ』と言った。でも彼らは関心を示さなかった」とラディは思い返す。
あるときには給与を支給するために車を売った。「それで私たちは帰って話し合いました。『そうか。この素晴らしいツールはITサポート業務にも使えるんだから、それを支援するITサポート用の製品を作ろう』」。今度は市場が食いついた。