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2019.02.20 17:30

ファッション界の「皇帝」ラガーフェルド、写真で振り返る軌跡

シャネル18年春夏コレクションのフィナーレに登場したカール・ラガーフェルド(2017年10月3日撮影)

シャネル18年春夏コレクションのフィナーレに登場したカール・ラガーフェルド(2017年10月3日撮影)

世界のファッション界を象徴する伝説的なデザイナー、カール・ラガーフェルドが2月19日、パリ郊外の病院で死去した。85歳だった。
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あふれる創造力でシャネルを再生させたラガーフェルドだが、その人柄や私生活の多くは謎に包まれている。「自分の本当の誕生日を知らない」とよく口にしていたことでも知られている。

仏誌ルポワンは追悼記事の中で、「ユーモアをもって時代の雰囲気を捉え、全般的なファッションの歴史、そしてシャネルとフェンディというファッションハウスを一変させた」と評した。

若くして開花した才能
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戦前のドイツで生まれたカール・オットー・ラガーフェルドは、20歳の時に母親と共にパリに移り住み、世界のファッションの中心地でキャリアをスタートさせた。コンテストで優勝した後、ピエール・バルマンのデザインアシスタントとして働き始めたが、わずか数年後には独立した。


20歳のカール・ラガーフェルド、「ジャン・パトゥ」のアトリエにて(1954年7月21日撮影)

ラガーフェルドはその尽きることのないエネルギーと創造力、遊び心のあるラグジュアリーなスタイルを武器に、自らのブランドのほか、クロエやフェンディをはじめとする複数のブランドのデザインを手掛けてきた。

困難な時期にあったシャネルのアーティスティック・ディレクターになったのは、ココ・シャネルの死から12年後の1983年だった。


シャネルのアトリエにて(1999年1月17日撮影)

シャネルの力強い復活を実現したラガーフェルドは、規律や職業倫理を重んじる姿勢などから「ファッション界の皇帝(Kaiser of Fashion)」と呼ばれるようになった。


デザイナーのジャン二・ヴェルサーチと(1995年5月撮影)

彼は最後までシャネルのクリエイティブ・ディレクターであり続けたが、1965年以降はフェンディのデザインにも携わり、また自身の名を冠したブランドも手がけていた。

「新しい自分」を模索

ラガーフェルドは2000年ごろ、自らのイメージを変えようと決意。およそ18kg減量した。さらに、活動の幅を大きく広げ、現代的でトレンド感にあふれたラグジュアリーの世界をリードする一方、関わるプロジェクトの数を大幅に増やし、新たな世代のスターやモデル、社交界の著名人たちとも仕事をしてきた。


東京で開催した写真展「The Little Black Jacket」に女優のバネッサ・パラディ、サラ・ジェシカ・パーカーと来場(2012年3月21日撮影)

ルポワンは前述の記事の中で、ファッションブランドH&Mとのコラボレーションや、ドキュメンタリー映画「ファッションを創る男~カール・ラガーフェルド~(Lagerfeld Confidential)」への出演、「コカ・コーラ・ライト」のボトルのデザインを担当したこと、愛猫「シュペット」をスターにしたことなどについても紹介。





さらに、彼が手掛けた中でも最も豪華なショーとして、「シャネル・ロケット」を打ち上げたパリのグラン・パレでのショーや、キューバで行った「クルーズ・コレクション」の発表などを挙げた。


シャネル14/15年秋冬コレクションのショーにて。会場のグランパレは「スーパーマーケット」に(2014年3月4日撮影)

また、英BBCはラガーフェルドについて、自身のオートクチュールによってだけでなく、「のりの効いた白いハイカラーのシャツと黒のテーラードジャケットにネクタイとジーンズ、さらに色の濃いサングラスと指なし手袋、黒のブーツという独特の組み合わせ」で世界的に知られるようになったと伝えている。

ラガーフェルドはかつて、自らの特徴的なスタイルについて、「私自身が自分の風刺画のようなものだよ、気に入っているんだ。仮面のようなものだ。私にとっては、ベネチア恒例のカーニバルが一年中続いているんだ」と述べていた。


シャネル19年春夏コレクションのショーにて。隣を歩くのは右腕のヴィルジニー・ヴィアール(2018年10月2日撮影)

彼の死は、ファッションの世界に「ラガーフェルド登場前と後」という時代を分ける永遠の指標を残すことになった。

編集=木内涼子 写真=Getty Images

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