サハリンに残る日本の遺構、日露国民の認識の差について考えた

『樺太時代の歴史と文化のモニュメント(1905-1945年)』(2015年、サハリン州文化省刊)、イーゴリ・アナトリエヴィチ・サマーリン著。日本語版の出版の計画もある

千島列島を管轄するサハリン州の州都ユジノサハリンスクは、成田空港からのフライト時間はわずか2時間40分、札幌からは1時間20分と日本から最も近い国際線運航地のひとつだ。人口は19万8973人(2018年現在)、ロシア最東端に当たる都市だ。

ここには、教会通いを欠かさない、もの静かでつつましやかな人たちが暮らしている。人と車の関係も、徹底した歩行者優先で、横断歩道の前に立つと車がすぐに停まってくれる。すでに経済発展してしまった近隣アジアの国々とは違い、派手な電飾看板や広告などはない、すがすがしい「ロシアの田舎町」といっていい。

とはいえ、日本との歴史的な関係は深い。明治時代初期までは日本人とロシア人が混住しており、1875年の樺太・千島交換条約でいったん樺太をロシア領、千島列島を日本領としたが、日露戦争(1904年~05年)の結果、第二次大戦(1941年〜45年)での日本の敗戦まで南樺太は日本領となり、ユジノサハリンスクは「豊原」として新都市建設が行われた。

こうして北海道の札幌を模した都市の骨格はできあがったが、戦後70年を超える月日はその景観をすっかり変えてしまった。

サハリンに日本の神社があった

2015年、サハリンで「樺太時代の歴史と文化のモニュメント(1905-1945年)」(Памятники истории и культуры периода губернаторства Карафуто 1905 – 1945 гг.)という本が刊行された。サハリンに残る南樺太の日本統治時代に造られた117もの遺構を、わかりやすい地図と写真で解説した案内書である。

その著者が、私に日露国民の認識の違いについて考えさせるきっかけを与えてくれた、地元の郷土史家イーゴリ・アナトリエヴィチ・サマーリンさんだ。

サハリンに残る代表的な日本の遺構といえば、サハリン州立郷土博物館だろう。前身は1937年(昭和12年)に建てられた旧樺太庁博物館である。


戦前の日本で流行した帝冠様式のサハリン州立郷土博物館(旧樺太庁博物館)

その建物と展示物の一部を受け継いで開館した現在の博物館は、サハリンの自然や歴史、民族文化などをテーマ別に展示している。なかでもヨーロッパやロシア、日本によるサハリン島や千島(クリル)列島の探検の歴史、この地域の先住民族であるアイヌやニヴフの生活文化を伝える資料、日本人が住んでいた樺太時代の歴史に関する内容などに特徴がある。

しかし、サマーリンさんが著した本では、旧樺太庁博物館以外にも、サハリン各地にたくさんの遺構が眠っていることを教えてくれる。ユジノサハリンスク市内だけでも、20の遺構が紹介されている。

そのうち1911年(明治44年)創建の樺太神社は、現在、本殿は跡形もないが、裏山に宝物殿が現存している。1935年(昭和10年)創建の樺太招魂社の石段と社殿の基礎部分もわずかに残っている。それらの遺構に実際に足を運んでみると、確かにそこに日本の神社建築があったことがうかがえるとともに、あらためて長い時間の経過を感じざるを得なかった。


樺太神社の石碑はかつての敷地(現ホテル)のはずれに放置されている
次ページ > 70年代まで日本の住居は残っていた

文=中村正人 写真=佐藤憲一

タグ:

ForbesBrandVoice

人気記事