サハリンに残る日本の遺構、日露国民の認識の差について考えた

『樺太時代の歴史と文化のモニュメント(1905-1945年)』(2015年、サハリン州文化省刊)、イーゴリ・アナトリエヴィチ・サマーリン著。日本語版の出版の計画もある


「面白いことに、いまサハリンの若い世代の一部は日本の遺構に関心を持ち始めています。彼らはよく仲間と車で無人のビーチや山に出かけますが、突然そこで鳥居や神社の跡を見つけ、これは何だろう、なぜこんなものが残っているのか、そうやって興味を持つのです」


サハリンの旅行会社の日本人向けパンフレットの表紙に鳥居の写真が使われている

現在、サハリン国立大学には約70名の日本語を学ぶ学生がいて、樺太時代の歴史を10数時間かけて教える講座もあるそうだ。こうして現在のサハリンの人たちは、樺太時代を郷土史のひとつの時代として理解するようになっている。

別れ際、サマーリンさんは興味深い話を聞かせてくれた。いま彼が研究対象として関心を持っているのは、サハリンに残る日本の茶器だという。樺太時代に日本人が利用したカフェや住居に残っていたものだ。

そして、静かにこう話すのだった。「こうした日本人の忘れ物もサハリンの歴史の一部なんです」


稚内との航路が結ばれたコルサコフ(旧大泊)の郷土博物館の樺太時代のコーナーには、日本の茶器やとっくりが展示されている

その言葉には一瞬ハッとさせられた。彼らと我々の島をめぐる認識には大きな隔たりがあることを感じざるをえなかったからだ。すでにサハリンには樺太時代を知る世代はそれほど多く存在しないうえ、還暦に近い1960年生まれの研究者ですら、ペレストロイカ以降、ようやく日本との歴史的な関わりを理解するようになったという段階なのだ。

サハリンのような、国と国の境に位置するボーダーエリアに暮らす人たちは、歴史的に多民族同士が身近に住まい、行き交う環境の中で、その多様性を受け入れてきた。だが、自分たちの行く末は、結局のところ、国家の顔であるモスクワに握られているという宿命があり、常に時代に翻弄され続けてきた。

ただし、「日本人の忘れ物」という表現から、その歴史を彼らは必ずしも否定的なものとして捉えてはいないこともわかる。ソ連崩壊後、ロシアは経済的苦境に陥ったが、極東ロシアの人たちは地理的近さから日本との中古車販売などの民間貿易を通して日々の生活をしのいできた経緯があり、日本の豊かさや安定した社会を知り、日本人に対して好意的な見方を持つ人が多いのだ。

これらの事情をふまえ、今日彼らに芽生えている日本に対する親しみの心情をどう受けとめるべきだろうか。島をめぐる問題も、結果的に、日露双方にとって共通の利益のある解決策とは何かを模索すべきではないだろうか。

連載 : ボーダーツーリストが見た北東アジアのリアル
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文=中村正人 写真=佐藤憲一

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