学校の正解主義から脱し「現場力」を高める方法

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地頭のいい人の事例を紹介するとき、僕はよくジャッキー・チェンの動画を共有します。ジャッキー・チェンは、敵と戦う時、その場にあったゴミ箱の蓋で防御したり、洗濯物の縄で攻撃したりと、目の前にあるものを即座に武器に変え、状況に合わせて最大限の戦いをします。僕は、彼の姿こそ地頭力の根源的な姿だと思っています。
 
「地頭力は鍛えられる」と、この連載でも何度かお話ししました。ただし鍛えるためには、まず人間の物の考え方そのものを見つめ直す必要があります。そもそも人の考え方には、大きくわけて二つのパターンがあります。まず一つ目が「帰納法」、二つ目が「演繹法」です。
 
簡単にいうと、帰納法はたくさんの事実から、一つの真理を浮かび上がらせる集合的な考え方です。一方演繹法は、先に原理があって、それを世の中に適応させていく考え方です。多くの日本人の思考パターンは、実は演繹法です。

演繹法タイプの日本の教育
 
なぜ多くの日本人が演繹法的な考え方をするのかをざっくりとご説明します。そもそも学校教育は演繹法を重視しています。基本的には、公式を覚えて、「公式に当てはまるものはABCのいずれかを答えなさい」という勉強の仕方をします。

国語などでは「これらの文章から、夏目漱石の考えを述べなさい」といった帰納法が存在しますが、本来、漱石の考えについては複数の回答がありうるはずなのに、教育現場では教師の解釈を正とする押しつけが発生しています。つまり、国語においても演繹法に近いやり方になっているのです。
 
なぜ学校教育が演繹法的に偏ってしまうのでしょう。それは、これまでの「問いが分かっている時代」においては、演繹法のアプロ―チが強かったからのです。ひたすら、公式をたくさん覚えて、回答をどんどん出していく力を拡大していくことを求められたのです。つまり、私たちはこれまでの官僚的社会において、帰納法よりも演繹法を優先するという教育をずっとさせられていました。
 
よって、ほとんどの日本人には、帰納法の訓練が足りていません。かと言って、帰納法的な考えをすればいいというわけでもないのです。なぜなら、帰納法として膨大な情報収集をしていたら変化の時代に間に合わないからです。
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文=尾原和啓

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