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名医の技術を「ストック」していく

そのためには、ゴッドハンドと呼ばれるような医師の技術を、ほかの医師にも共有できる仕組みが必要になります。それが、今取り組んでいる、医師の暗黙知をオンライン・ライブラリ化する試みです。

医師同士の技術の格差と言ってもその大半は、技量の高低ではなく、単にスペシャリティの差異の問題です。たとえば医師全体の10分の1いない心臓の専門家の診断技術を、残り10分の9の医師にも共有できないか、ということなんです。

これを考えるために、少しだけ、別の切り口からも、お話をさせてください。

この世界には、「ストック性」のあるものと「サイクル性」のあるものとがあります。たとえば文字や情報にはストック性があり、時代とともに累積・進化していきます。200年前の名医よりも、いまの研修医の方が多くの医学知識をもてるのはそういうことです。

逆に「暗黙知」と言われる、個人が修行や経験で体得した技術は、前の世代から引き継げないため、どの世代も一から修行を積まなければならず、グルグルと輪廻しています。ストック性がない、「サイクル」です。



ストックすることのメリットは、「前の人がやり尽くした、その続きから続けられる」という点です。「巨人の肩に立てる」ということです。

たとえばあるサルが、「うろこ雲の次の日は雨」という現象に気づいたとします。こういうファクトにたまたま気がついても、言葉を持たないサルは、その知見を別のサル、あるいは後世に伝えられない。つまり、サルにとって情報は「サイクル」なんです。

一方ヒトは、言語を通じて、そういう知見をストックして行けます。ヒトにとっての情報は「ストック」です。

医療情報も、ある専門分野でずっと研究していた人が「やり尽くした場所」から続きを始められる。ゼロから始めないで、「ストック化」していけます。ここ20年で、論文がインターネットで共有されるようになったことで、このストック性は加速的に広がり、先進国と途上国の間でも、医療情報の格差はなくなりました。

「人類3.0」は、匠の技をネットワークとして表現・保存

ところが、困ったことに、ストック化できないものごとがありました。それが、医療現場の「匠の技」、たとえばかすかな心音の違いを聴き分けたり、レントゲン画像を目視して腫瘍を見つけたりする技術です。そうした技は身につけるのに年月がかかり、その技術を継承、すなわち「ストック」することはできないわけです。

しかし、ニューラルネットワークの発明によって、このパラダイムは変わります。囲碁AIが名人の打ち筋を再現できるのと同じように、抽象的な「技」を、ストックして全人類で進化させていくことができる。医療分野で言えば、全世界の医師で「匠の技」をストックして、進化させて行くことができるんです。

「抽象的なものをネットワークとして表現・保存できる」ことが、ニューラルネットワークの持っている力です。つまり、AIを活用して暗黙知である熟練の「技」にストック性を持たせることができれば、1年目の研修医でも、ゴッドハンドの技の恩恵にあずかることができるんです。

聴診器にAIが搭載されていれば、一部の病気の心音だけは専門医並みにAIが拾い上げてくれるかもしれない。全てを見抜く「万能」AI聴診器ができるのは遠い未来のことでしょうが、決まった音だけを狭く深く、高い再現性でピックアップするのは、むしろAIの得意な分野です。

言葉を持たなかった古代のヒトを「人類1.0」、言語を通じて情報をストックできるようになったヒトを「人類2.0」とするならば、それまではストック化できなかった「技術」を、深層学習、すなわちニューラルネットワークを通じてストック化できるようになったヒトは、いわば「人類3.0」のような位置づけになるのだと感じています。



これまでのパラダイムでは他者へ引き継ぐことができなかったそういう「抽象的な力」をニューラルネットワークとして表現することができたのが、AI、ディープラーニングのもたらしたブレイクスルーだと思っています。

構成=石井節子

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