「善男」と「悪役」? 松井秀喜とヤンキース史の意外な関係

2006年5月、左腕手首の手術の結果報告に記者会見する松井秀喜選手。Corey Sipkin/NY Daily News Archive via Getty images

アメリカの国民的な娯楽である野球は、彼らの生活、文化、歴史だけでなく、秩序、伝統、民主主義、正義など、アメリカ人が大切にする価値観と密接に関係するスポーツだと思う。

僕は、松井秀喜選手がヤンキースに在籍した7年間のうち5年間をニューヨークで過ごした。そのため、一方的ではあるが、彼のことをとても近い存在に感じている。

普段はテレビを通じて、時には球場で、彼が活躍する姿を一野球ファンの目線で追った。当然ながら、成績が落ちると地元のメディアに厳しく批判されることもあったが、それでも、彼はニューヨーカーの心をがっちりと掴み、多くの人々に愛されていた。

その証拠に、2009年シーズン限りでヤンキースを退団した後、他球団を渡り歩きながら過ごした彼は、13年にヤンキースとの間で一日契約をし、ヤンキースのユニフォームを着て選手生命を終えた。異例のことだ。

引退前の一日契約は、メジャーリーグでは伝統となっているが、球団に対して多大な貢献を行った者にしか与えられない名誉だ。しかも、彼の背番号55番にちなんで、シーズン55試合目に引退セレモニーが行われた。更に、引退後、彼はニューヨークを離れることなく、ヤンキースのGM特別アドバイザー就任という特別待遇を受けた。

なぜ、松井選手はそんなにニューヨークの人々に愛されたのだろうか。彼は03年のメジャー1年目にヤンキースタジアムでの開幕戦で満塁本塁打を放ったし、09年のワールド・シリーズでMVPも獲得した。もちろん、こうした活躍によるところも大きいだろうが、それだけではない。彼の人間性と野球が国民的娯楽であることとが深く結びついているのではないだろうか。

松井選手は、名門ヤンキースの一員らしく、グラウンドではいつも紳士だった。打席で唾を吐いたり、審判に抗議したり、ヤジを飛ばしたり、怠慢なプレーをすることはなかった。彼は、日本とは全く異なる環境の中で毎日ひたむきにプレーし続けた。

しかし、ヤンキースに入団して4年目の06年5月11日、彼は、大アクシデントに見舞われた。

この日、僕は仕事を定時に切り上げ、自宅アパートで4月に生まれたばかりの息子を抱っこしながら、ヤンキース対レッドソックス戦の中継を見ていた。それは、初回の守備で突然起こった。

無死1塁からマーク・ロレッタはレフトへ浅いライナー性の当たりを打った。これを松井選手が懸命に前進し、スライディング・キャッチを試みるも、グローブが芝生の中に入り込み、左手首を逆方向にひねってしまった。彼は今まで経験したことのない痛みを感じながらも、転がったボールを必死に拾い上げて二塁へ送球した。

普段、痛みの仕草を滅多に見せない松井選手が両ひざをついたまま右手で左手首を押さえ、その場から動こうとしない。心配した監督、チームメイト、トレーナーが駆け寄り、そのままベンチに姿を消した。

松井選手は、病院に搬送され、診断の結果、左手首の骨折。巨人時代の1993年8月から続けてきた連続試合出場記録が1768試合で途切れてしまった。
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文=香里幸広

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