──現実世界に目を向けると、インターネットの中での人格と、現実世界の人格が異なるなど、テクノロジーの進歩によってあらゆる境界線が曖昧になっています。
作品に社会的なテーマを直接持ち込むことはしていませんが、複数の世界がある世界観は、インターネットが存在する現実世界からもインスピレーションを受けていると思います。
今回複数の世界が同時に進行していく映画にしたのは、「他者への想像力」を描きたかったから。なぜなら、私は社会の不寛容さを、インターネットを通してより強く感じるようになったからです。
例えば、赤ちゃんを連れたお母さんが電車に乗ってきた時の心無い反応や、マイノリティに対する理解のない発言など、もちろんそればかりではないにせよ、インターネットによって人々の不寛容さが表出してきたように感じています。
確かに現実社会での「世界は一つ」ですが、それぞれ見ている景色は人によって全く違うから、それぞれが捉える感じ方も全く違う。つまりそれは、同じ空間にいてもそれぞれ「別の世界」を生きているのではないか、そう私は考えています。
自分の世界以外に、他者の世界も存在していることを意識できないことが不寛容さに繋がる。だからこそ、「全く違う世界に身を置く他者を、身近に感じる」映画を描こうと思いました。
──そもそも、清原さんが映画に興味を持たれたきっかけはなんだったのでしょうか。
高校生の時に、ロシアの映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの作品を観たことがきっかけです。
それまでは、実写映画ではなくアニメーションが好きでした。特に押井守監督が好きでよく観ていたのですが、ある時テレビか雑誌かで、押井監督はもともと古い映画が好きで、特にタルコフスキーに影響を受けていると聞いたんです。「それは見なければ!」と、地元のレンタルショップでタルコフスキーの作品を探しました。
初めてシネコンでかからないような芸術性の高い映画を観て、「自分が好きな映画を見つけた」と感じました。そこから、ミニシアターで上映されているような昔の映画にハマり、ヌーヴェルヴァーグ(編注:フランスで1950年代末にはじまった映画運動)の映画なども観るようなっていきました。
──初めて映画を撮られたのも、高校生の頃だと伺いました。
当時観ていた映画は、「私にも映画が撮れるかもしれない」という気持ちにさせてくれました。高校生の私にとって、ヌーヴェルヴァーグの映画などは、手持ちカメラを街に持っていって、友達みたいな女優さんを好きなように撮っているように見えたんです(笑)。そこで、友人と「遊びで撮ってみよう」と映画を撮ったのが最初の映画製作でした。
撮影はとても手応えを感じました。それは、誰かから作品を評価されたからではなく、撮っていて、とても楽しかったという意味で。この経験から「もっと映画を撮りたい」と考えるようになり、映像を学べる大学に進学しました。
──東京藝術大学大学院の映画監督コースでは、黒沢清監督、諏訪敦彦監督の授業を取っていたと聞きました。どんな影響を受けましたか?
映画製作において、「制作過程」が作品に与える影響の大きさを学ばせていただきました。
東京藝大の大学院では、いわゆる教科書的な「プロの制作方法」で映画を作ることを学ぶ場でした。とても合理的な方法で勉強になったのですが、一方で教授である諏訪さんの制作方法は独特で、脚本を使わないんです。既に確立された方法で撮りたいものを撮るのではなく、作り方から映画の内容を作っていくのが映画製作なんだ、とその時学びました。その影響は、いまも強く受けていると思います。
──これからの目標はありますか?
自分が本当に撮りたい映画を、撮り続けていきたいです。当たり前のように聞こえますが、これはすごく難しいこと。
自主映画にスポットライトが当たる機会が増えてきているとはいえ、日本の商業映画という舞台で、新人監督がオリジナル企画を撮ることは現状はとてもむずかしい。商業映画と芸術性の高い自主映画が分裂してしまっている問題と向き合いながら、自分が本当に撮りたい映画を、仕事として撮り続けたいと心から思っています。
きよはら・ゆい◎1992年東京生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒後、東京藝術大学大学院映像研究科に進み、黒沢清、諏訪敦彦両監督に師事。藝大の修了作品として制作された「わたしたちの家」は第39回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)、「PFFアワード2017」のグランプリを受賞し、2018年2月に開催された第68回ベルリン国際映画祭に正式出品。