良いナッジと悪いナッジ、その違いは何か。セイラーによると「一つは透明性。隠れてやるのではなく、どんなナッジをしているのかわかるようにすることが肝心だ。次に、そのナッジが相手の最善の利益のためになっているかどうか。それはつまり、顧客の信頼の獲得につながる」。
寿司屋に行ってオススメを聞いた時、本当にその日の美味しいネタを勧めるのか、はたまた売れ残りを勧めるのか。一回限りの取引では店側は経済合理性を追求した方が手元に残る利益は大きいかもしれないが、顧客が戻って来る中長期的に繁盛する店を目指すなら美味しいネタを勧めるべきだ。
難しいのは、顧客の利益を考えている良い店の方がパッと見の値段が高くなってしまうことだ。先程の銀行のカードの引き落としも、気づかれなければ正直にやっている銀行が競争で不利になる。長期的な視点はどの企業にとっても重要だが、現代企業のCEOにとっては3〜4年が「長期」だ。その期間で利益を上げられるだけ上げて、別の企業に移るCEOも多い。
それは政治の世界にもある。次世代にツケを回すバラマキ型の政策と同じだ。「私は最終的に信頼に足る企業が信頼できない企業を駆逐できると思うが、これは今日の重大な問題の一つだ」
行動経済学者は合理的な選択か
人生において、合理的な選択とは何か。それは、自己の経済合理性を追求することではなさそうだ。
セイラーが心理学者だったダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーと出会い、行動経済学という未知の分野を開拓すると決心したのは32歳。行動経済学をやっていたのは片手で数えるほどしかおらず、当時の主流派経済学者からは相手にされなかった。彼にとって、その人生の選択は合理的だったのか。尋ねてみた。
答えは即答でイエス。
理由は二つ。一つは機会損失が少なかったこと。彼は行動経済学者としてはずば抜けていたが、「伝統的な経済学者としては平均的だった」と謙遜する。また、伝統的な経済学をつまらなく感じていたのも理由の一つだった。一方で、行動経済学を彼は心から楽しむことができた。
セイラーの次世代へのメッセージは、「自分のチェロを探せ」だ。世界的チェリストのヨーヨー・マがバイオリンでは振るわなかった才能をチェロと出会って開花させた、という話にちなむ。どんなに努力しても、多くの人はビル・ゲイツやヨーヨー・マのような成功を掴むことはできない。でも楽しいことは誰にでもある。
「楽しさで人生を決めること。それ以上に合理的な選択はないね。人生には避けられない不幸が起きる。だからこそ人生を楽しむことは最高の保険のかけ方だ。しかも、他の保険と違って投資会社に一銭も支払う必要がない」
朝食の後、一緒に滞在していた妻のフランス・ルクレールにも挨拶させていただいた。彼女は世界中を旅しながらドキュメンタリー写真を撮り続けているプロのカメラマンだ。取材が終わると、2人は仲睦まじく京都旅行に旅立っていった。
リチャード・セイラー◎シカゴ大学ブース・スクール・オブ・ビジネス教授。1945年、米国生まれ。ケース・ウェスタン・リザーブ大学を67年に卒業、ロチェスター大学で修士号と博士号を取得後、ロチェスター大学で助教授を務める。コーネル大学を経て現職。イスラエルの心理学者だったダニエル・カーネマン(2002年にノーベル経済学賞受賞)とエイモス・トべルスキーの影響を受け、経済学に心理学的なアプローチを取り入れた行動経済学の理論構築に寄与。金融市場や法律分野での行動経済学の応用や、次世代の行動経済学者の育成にも熱心に従事する。17年ノーベル経済学賞受賞。
竹内 幹◎1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院経済学研究科准教授。98年一橋大学経済学部卒業。2007年ミシガン大学で経済学Ph.D.を取得。専門は実験経済学と行動経済学。アイトラッキングを使った実験等を手がける。一男一女の父。