世界38カ国、800万人が愛読する経済誌の日本版


なぜ金融危機は「今のところ」起きないのか

セイラーの行動経済学は家庭や企業単位の行動を扱うミクロ経済学だけではなく、マクロ経済学にも大きな影響を及ぼしている。例えばマクロ経済学の重要な命題の一つ、金融危機の発生もヒューマンが絡んでいる。

セイラーによれば「世の中がエコンばかりだったら金融危機は起こり得ない」。金融危機を引き起こすのは、「ヒューマンによる誤った行為」だからだ。

08年の金融危機の前、銀行やカード会社は払える見込みがない人々にも高金利の住宅ローン(=サブプライムローン)を貸与。人々も払える見込みがないのにローンを借りた。格付け会社は債権をトリプルAと評価し、さらに人々が買う。「これらは合理的な経済理論では説明できない」という。

セイラーの例えでは、経済は「2、3歳の子どものようなもの」だ。「嬉しそうにしていると思ったら、次の瞬間、泣き出してしまう。説明できないことがどうしても起きてしまう。防ぎたくても防ぎきれないことも起きてしまう」。子どもが突然泣きだす理由を我々は推測することしかできない。では、どうやって子どもを良い方向に導けるのか。

08年の金融危機の後、同様の規模の危機は起きていない。セイラーは「フォワード・ガイダンスが成功した」という。フォワード・ガイダンスとは、米連邦準備制度理事会(FRB)など各国の中央銀行が将来の金融政策を前もって発表することを指す。フォワード・ガイダンスが実現する保証はない。

しかし、マーケットがFRBや中央銀行のフォワード・ガイダンスを信じているため、危機が回避されているというのだ。

「ここでの重要な教訓は、信頼関係が構築できたということ。信頼はとても大切なテーマだ」。信頼関係の大切さは、顧客と企業にも当てはまる。

「facebookやUberを見ていればわかる。どのように企業が信頼を築くのか。自分が会社を設立するならとても興味深いね。それを解き明かすのは行動経済学にとっても重要な課題だ」。

より良いヒューマンの世界へ

人々はエコンではなくヒューマンとして振る舞う。そのヒューマンの特徴を捉えて行動変容を促す方法がセーラーの提唱したナッジだ。ナッジは、選択の自由を奪わずに選択のフレームを変えて各自がより良い方向へ選択できるようにアシストする。

例えば臓器移植の普及。死後の臓器移植提供について、同意する人ではなく同意しない人が申請する、オプトアウト方式にしたところ、「同意者」の数が激増した。「臓器提供に同意する」という行動のハードルを下げたナッジだ。

また、個人の意思を正確に把握するにために運転免許証の更新の際にその都度確認する、という方法も有効だ。いずれの場合も少しの工夫で、簡単に人々の行動を良い方向に変えることができる。

もちろん、ナッジは良い方向にも悪い方向にも設定することができる。例えば、英国の新聞社のウェブサイト、オンライン購読の契約。セイラーは自分の本のレビューが掲載されたので、その記事を読むために1カ月のお試し価格で契約し、1カ月後に解約しようとした。

しかし、解約は2週間前に通知が必要な上、営業時間内に電話しなければならなかった。結局、読まない新聞の購読料を数カ月分も支払うはめになったという。このような契約が顧客に与える印象は良くない。信頼が重要なはずの新聞社だが、たった数カ月分の購読料を得る見返りに信頼を失っている例と言えるだろう。それは、セイラーが「スラッジ」と呼ぶ、悪いナッジの例だ。

文=成相通子 イラストレーション=マシュー・リチャードソン(ハート) 写真=小田駿一

PICK UP

あなたにおすすめ

合わせて読みたい